跋

聖心女子大学名誉教授・文学博士
目崎徳衛
麻田君との交友は、旧制小千谷中学校入学以来であるから、すでに五十六年に及ぶ。一学年一グラスの、おそらく当時日本一小規模な中学校で五年間、教室でも陸上競技部のグランドでも毎日毎日一しょであった。卒業後、麻田君は京都に、私は金沢・東京に遊学したが、年々京都に行つては名刺・名所を案内してもらった。大原までの高野川沿いの長い道を歩いて往復したことなど、いまも記憶に鮮明である。やがて戦争が激化し、学徒出陣と相成った時には、一しょに徴兵検査を受け、同じ部隊に入り、あまつさえ二人ともすぐ追い返されてしまった。もともと麻田君のお寺は、拙宅と遠い駅とのちょうど中程の場所にあるから、いつも図々しく上りこんでは母堂や奥様にご迷惑を掛けた。またその蔵書を欲しいままに使わせてもらった学恩は、旧著『漂泊』の巻末に記したとおりである。半世紀余の交友は、一方的に私の借り分であった。
痩躯鶴のごとしと言うか、あるいは針金のごとしと言うか、ともかくスリムな少年だった麻田君は、幼時から中学噴にかけては風にも堪えぬ風情であったが、どういう風の吹き廻しか、いや人一倍強靭な精神のせいであろうが、戦後見違えるようにたくましくなった。そして学生時代に休日ごとに歩いた飛鳥・奈良はもとより、また祖師聖人の県内・県外の遺蹟ももとより、かつて経営していたルンピニ学院の女子学生をひきいての日本アルプス登山、長駆して中国・印度の仏蹟巡礼など、眼をみはるほどの行動力を発揮して今日に至った。旅と紀行は彼の豊かな詩心の現われである。
麻田震の足跡は外へ外へと延びただけではない。八百年の歳月を苦もなく遡って、親驚聖人・恵信尼公と直き直きに対面する。その対面したさまは、この本の巻末二編にいきいきと描かれたとおりであるo外道の私から見れば、このひたむきな信心はほとんど現代の奇蹟のように思われる。
麻田君の信心と詩心のみごとな結晶である本書に、無くもがなの践を添えたのは、ひとえに一友人としてまた数少ない同級生のひとりとして、同級会の万年幹事麻田君の命令とあれば断わる術がないからである。何よりも読者の皆さんより一足先にゲラを読ませてもらう果報がありがたかった。有縁の読者諸氏と共に、著者の健康を心から祈りたい。