大地に生きる—越後、そして関東の二十数年

承元々年春早々、以上のような承一万の法難によって越後国府に流刑になられた親驚さまは、北陸路を旅し、越後小野浦より舟で居多の浜に上陸、配処への第一歩をしるされたと古来より伝えられております。
今、居多の浜の切り岸には、親驚さまのご上陸の情景をレリーフにした記念碑が建てられて往時をしのばせております。
越後に着かれた親驚さまは、直ちに土地の役人に引き継がれ、越後国府の国分寺境内に粗末な草庵を与えられて住まわれたと言われます。そして、一年程で国分寺のすぐ近く「竹が前」に移り住まわれたと伝えられます。
しかし、中世の越後国府がどこにあったか、難かしい問題も多く、今後の大いなる研究が待たれることであります。
当時の刑法によりますと、流人は全て、初めの年の収穫時までは、日米一升塩一勺を官給され、種子を与えられて農耕し、収穫時以後は一切の官給を止められて全くの自給自足の農耕生活をさせられたと言われます。親驚さまもおそらく、遠い旅路の疲れを癒す間もなく春のおそい越後の田野に立たれて、慣れぬ農耕に汗を流されたことでありましょう。しかし、流人とはいえ親驚ざまの場合、流刑地における迫害などは余り見られなかったことと思われます。それは、真剣にこの流人生活を自からに受け入れられて努められる親驚さまの生活態度、またどこか温かなお人柄は自然のうちに周囲の人々を引き付けて行かれたことであり、また近くには妻筑前の生家三善氏が、京の九条家の越後荘園の管理人としてあり、蔭ながらの援助もあったことと思われ、さらには、特殊の場合を除き概して都の文化人の流人を、地方では温かく迎え入れる慣習もあったようであります。こうした中で親驚さまは、妻筑前(後の恵信尼〉と共なる生活も、案外に早くこの流刑地にあって送ることができたように思われます。
しかし、それにしても越後における親驚さまの生活は、かつて経験のない厳しい農耕の生活でありました。京の比叡山や吉水・岡崎で多少の畑いじりなどなされても、それは直接生活に心配のない言わば余技的補助的なものでありましたでしょう。しかし今は、自らのその農耕に生命をかけてゆくものでありました。そのいのちをかけた農耕生活の現実の中で親驚さまは、人間というものはいかに沢山な動植物の命の犠牲の上に、抜きがたき罪業を背負いあがきつつ生きてゆかねばならぬものであるかを、身にしみて痛感されたのでした。
しかも親驚さまの周囲には、いちように子沢山で働けど働けど楽にならず、地をなめ這いずるようなその日その日の生活に追われ、念仏をとなえる暇さえなく、ただ束の間の喜びに生を託してようやく生きている多くの人々の姿がありました。親驚さまにとって、都にあって何の生活の心配もなく他人の作った米を平気で食べながら、良き国極楽に生れようと善だ行だと言っていることの虚しさを、この時ほど痛切に感じとられたことはなかったでありましょう。
もし如来の大悲が、絶対であり真実であるならば、都の聖たちにもまして、自らを含め、かかる人々こそ救われてゆくものでなければならないではないか。親驚さまは真剣に法然上人の教えをこの現実に立って顧み、この現実の中に善導から曇驚・天親と三国にわたる高僧の教えを繰り返し繰り返し味読されてゆかれたのでした。そこに親驚さまは、いよいよ如来大悲の絶対の救いと、それを率直に受ける「信」の世界の展開を、期せずして深く見詰め仰がざるを得なかったのでした。
善も行も、そして念仏すらその真実をなし得ず、ひたすらに悪業と宿業の地柄の中に生きねばならぬ一般大衆こそ、最もその生活の中で救わるべきものとするならば、それはひとえに如来の救済力に依る外はないではないか。
そして、かかる一切大衆の生活中にも真実の生きがいありとすれば、それは如来の絶対の救済をわが身に自覚する――信ずることにおいて救われる喜びの中に「真実」や「愛」の尊さを知り、そしてまた、如来にはからわれまつる無為自然の中に、限りある私たちの善行を、愛を、念仏を尽くしつつ生きることにあるのではないか。親驚さまは、こうした道に自らの救いを、また一切大衆の救いと凡夫としての生き甲斐を見出されたのでした。
それは、日本仏教の分水嶺と言われ、人間向上の仏道から一転して凡愚性の自覚の中に念仏を独立された法然上人の浄土教を、その方向においてさらに深め越えてゆかれた親驚さまの新たな展開であり、それこそ浄土真宗と後に名のられた道でありました。
親驚さまは、ようやくにして到達されたこの境地を、経典と三国の高僧の教に依りつつ理論的に体系づけられるべく、静かに筆を運ばれる日も多くなりました。まさに晴耕雨読の生活であり、また半年を雪にうもれる冬ごもりも、親驚さまには幸したことでもありましょう。後年の主著『教行信証』は、すでにその原形が形づくられつつありました。
こうした生活の中で、配流五年目の建麿元年三月には親驚さまご夫妻の聞に後の信蓮坊も生れ、配流の草庵もひときわ賑わっていったことでありました。その年、親驚さまは院の庁に、承元の法難の由縁を述べ関係者一同の勅免を請う上奏文を提出されておられます。
そして、同年冬十一月十七日付で待ちわびられた関係者一同の流罪勅免が為されたのですが、その知らせが親驚さまのもとに届けられたのは、おそらく北陸の山野がすっぽりと雪におおわれた十一月末か十二月初旬でありましたでしょう。
春の帰京を待ちわびられた親驚さまに、しかし、冬もまだ明けやらぬうちに、早くも師法然上人ご他界の悲しい知らせが伝わりました。ひとたびは帰京を夢見られた親驚さまも、このよき師の他界によって帰京への喜びも希望も失われ、むしろ、しだいに慕いよる素朴な越後の人々への教化を志されて、一時は越後永住を思われたようであります。
そして今は、自由人となられた親驚さまは、しばしば草庵を出られ国府を中心に熱心に近辺の人予を教化され、また時には海岸線をたどられつつ北上し、遠く野積・五カ浜から鳥屋野のあたりまで布教の足をのばされておられます。
この親鷺さまの地味な教化に温かく育まれて、越後の地にもお念仏の教が芽生え、人間の本当の喜びと生き甲斐を思う信仰の集まりがもたれてまいりました。
今、越後には有名な「親驚聖人七不思議」と言われる、往時親驚さまが教化に歩まれたとする跡を顕彰する物語があります。その多くは、誠に親驚さまらしからぬ、若い人たちが眉をひそめるような物語でありますが、史実と見れば誠につまらないその物語も、当時の人たちが理解を越えた自然の不思議をすぐ毅驚さまに結び付けても、ひたすらに続驚さまを慕い親驚さまを子孫に伝えようとした素朴な民衆の心から生れ育てられた牧歌と思えば、まことに心温まるものがあります。
しかし、当時越後における親驚さまは、どちらかと言えば大衆の教化よりはやはり、この越後における尊い生活体験をとおして味わわれたみ仏の大慈悲による救済を、経典や伝統の祖師方の中に体系づけることにこそ心くばられておられたように思われます。
その点、配流の地であった越後には、ぜひとも参考にされたい大蔵経も当時はなく、まことに不便な土地でありました。
たまたま縁あって、建保二年(一二一回〉親驚さま四十二歳の時、ようやく住み慣れて親しさを増した越後に心残されつつも、親驚さまは一家をあげて関東に移住されることになりました。
おそらく直接の縁としては、井上善勝あたりの招請によることであったと思われま。しかし、何より親鸞さまの心を引いたものは、関東には下野・薬師寺や常陸・稲田姫社に大蔵経があったことでありましょう。そしてまた一面には、関東北部には多くの越後からの開拓農民も移住して越後との縁も深く、それらの人々を含め関東の大平原に宿業のままに苦闘する多くの人のあることを知られて、関東布教への静かなる情熱を持たれたことも、親驚さまの関東移住を決意させる内なる縁ともなったことでありましょう。
建保二年、足掛け七年の思い出多い越後に別れを告げられ、一家をあげて旅立たれた親驚さまは、越後国府より信濃・善光寺を経て碓氷峠を越え関東に入り、大利根の泊々たる流れにそって旅せられたのでした。しかし、親驚さまはこの旅の途中、佐貫(今の群馬県邑楽郡佐貫〉において実に貴重な信仰体験を経られたのでした。それは、佐貫までたどり着かれた親驚さまが、治々たる利根の流れを見つめられつつ、思わず衆生利益のため浄土三部経千部を読もうと志されてこの地に足を止め、四、五日の間読経三味の日を送られたことであります。しかし、親驚さまはすぐ思い直されて、三部経読請を止められて目的地下妻への旅を続けられたのでした。なぜでありましたでしょうか。それは親驚さまが、私たちの救われる道はただ一つ、み仏の救いを信じてこの私自身念仏することであり、いたずらな読経三味や思い上がった念仏三昧などの中には、私たちの救いも生き甲斐もないことに思い致されたからであります。それは親驚さまにとって、瞬時の迷妄を離れられた事であり、また長い求道の末に困難な越後の生活を通して体得されたものへの蘇生でありました。しかし、親驚さまはなぜ一時にもせよこうした自力的なものに心寄せられたのでありましょうか。この疑問をもって筆者自身、佐貫の平原に立ってしみじみと坂東太郎の流れを見つめたとき、定漢として一切を呑み込むかのような関東の大平原に異様な戦懐を覚えたことであります。七百年前、関東の大平原はさらにさらに原野の広がる荏漠たる大平原でありましたでしょう。しかもその大平原の中には、地頭・領主・地主・農民と、それぞれ生きんがための血みどろな葛藤が繰り広げられておりました。山国になれた親驚さまが、知る辺とてないこの関東の大平原を旅されつつ、この救い難い人間の救いに思い馳せられた時、圧倒されるような強烈な風土の影響のもと、如何とも為し得ないような一時の感傷におそわれ、思わず三部経読請の夢となったのではないでしょうか。
しかし、遣しい親驚さまは、そうした一時の感傷からすぐ立ち直られて再び旅を続けられるのでした。しかし親驚さまは終生このことを、人聞の自力への執心の強さとして深く反省されてゆかれたのでした。
やがて親驚さまは、善性の居住地蕗回の近く、下妻の小島の草庵に落ち着かれました。そして親驚さまは、善性・性信初めしだいに慕い寄る人々に、静かにみ法を説き人聞の生きる道を語られつつ、折を見ては十里の道を遠しとせず下野国薬師寺にかよわれて大蔵経を閲覧されつつ、主著『教行信証』の述作に情熱を傾けられてゆかれたようであります。しかし、下妻逗留は僅か二、一二年にして、常陸国稲田の太子堂が空い
たのを折に、親驚さまは稲田に移られておられます。下妻の小島草庵のご生活は、このようなごく短期間と思われますが、この短い小島生活の中で、奥さまの恵信さまはそれこそ終生忘れ得ぬ尊い体験を持たれたのでした。
それは小島草庵でのある日、うたた寝の中で恵信さまは夢で、とある御堂供養にお参りされ、そこである人から夫親驚さまこそ観音菩薩の化身であると知らされた事であります。驚き目覚めた恵信さまは、それが夢であったことを思いつつ、しかしわが夫親驚さまが、六角堂百日参龍から吉水教団における真撃な求道生活、そしてさらに越後流罪の苦難の生活をとおしてようやく到達された輝ける生を体得される過程を、常に傍らにあって過ごしつつ、恵信さまは、わが夫親驚さまこそ観点目の化身と信ぜざるを得ませんでした。しかしもち論、恵信さまはこのことは誰にも語られず、夫親驚さまにも一言もお話にならず、ただ一人わが胸に秘めて、それ以後は固くわが夫親驚さまを観音菩薩の化身と信じて終生親鷲さまに仕えられたのでした。ただ、弘長二年十二月親驚さまがお亡くなりになった後、末娘覚信さまへのお手紙の中に、初めてこの五十年前の夢のことをまるで昨日の出来事のように鮮明に語られつつ、親驚さまの人となりを生きるが如く描写されたのでした。
今、下妻市郊外一面の麦畑の中にある小島草庵の跡には、枯れかけた大銀杏の老木が天空高く枝をそびえさせて、往時を物語るかのようであります。

親鸞さまが、常陸国稲田の太子堂に移られたのは、当時稲田がこの地方の文化の一中心地であり、その稲田姫社にはおそらく大蔵経も奉納されてあって、閲覧の便があったことによるのでありましょう。そして、その手引は善性や稲田九郎頼重(後の教養)など親驚さまの側にあった人たちの努力によったことでありましょう。親驚さまは、ここに全力を挙げて主著『教行信証』の完成に力を注がれたのでした。そして、関東移住後ほぽ十年の歳月をついやされて元仁元年(一二二四〉の少し前、一応『教行信証』を脱稿されたものと考えられます。
この『教行信証』こそ、親驚さまが精魂をかたむけ長い歳月をかけられた主著であり、強烈な信仰の吐露であり、また浄土系思想の大成であり、親驚教学の大系であります。
この、親驚さまの身証されたものは何でありましたでしょうか。それは、如来の大慈悲が絶対でありその絶対の大慈悲の救いにただ私が目覚め(信〉ゆくところに、私たちのような人間生活の煩悩苦海にあえぐ者にも、限られた生命の中に本当の意味での生き甲斐ある生が聞かれる(正定爽〉ということでありました。

六世紀に日本に仏教が伝来されてより以来、仏教は人間煩悩の否定の上に浄仏国土と悟りを求める人間向上の道をひた走ってまいりました。それゆえに仏教は、愛憎の根源たる家庭生活を離れる出家を求め、断煩悩の厳しい行修の中に悟りを求めたのでした。それは誠に、美しくも清らかな人間向上の理念に燃えるものでありました。
しかし、そこには必然的に大衆は遊離され、現実の人間生活の中で煩悩苦に哨ぐ人間の救いはあり得なかったのです。しかし実際に救われなければならぬものは、実はこの現世の愛憎の生活苦に沈み、逃れたくともここより逃れ得ぬ私たちであります。出家もなし得ず、行もなし得ず、我執も捨て得ずに、しかもよき人聞を夢見て瑞ぐような欲張った現実の私たちこそ、最も救われてゆかねばならぬ罪深きものでありましょう。
親鸞さまは、この原点に立って長い求道の末に、大乗仏教の根本に帰り如来の大慈悲の救済の絶対性を身証されたのでした。如来の救済こそ絶対力であり、その如来の絶対救済の前には、人聞のささやかな善悪や行修や否、念仏すら、救われることにおける何の条件にもなり得ないものであり、弥陀の本願は、老少善悪を選ばれず一切の障碍を越えて苦悩の生活に哨ぐものを斉しく救いゆくとの、確固たる身証でありました。
そして人間煩悩に沈潜し人間生活に鴨ぐ私たちも、自らのはからいを離れこの如来の絶対の救済力に目覚めゆく(信)とき、限られた生の中で煩悩我執にあえぐ私たち全ての人聞にも輝ける生――如来にはからわれまつる自然法繭の生活の中に、本当の意味の生き甲斐を見出し得る道が開かれてゆくということを、親鷲さまは身証されたのでした。
親鸞さまが、一心に『教行信証』の執筆に励まれておられる聞にも、親鰍摘さまの傍らには、そのお人柄とみ教えを慕ってしだいに若く有能な人たちが集まってまいりました。
そして親驚さまは、この浄土真宗の教学大系でもあり信念の書でもある『教行信証』の一応の完成を見られると共に、それを機会に今までとは打って変ったような積極的な、否、文字どおり不惜身命の一大布教伝導の大活躍を関東一円に展開されたのでした。
関東の広野には、それこそ数えきれない多くの人々が、貧困を生きる苦闘の中で真実頼るべきものをもたず、苦悩と不安の中に利那的楽しみを求めてあがき苦しんでおりました。親驚さまはこの人たちに、自ら出会い目覚められた如来の大慈悲と、凡愚の人生のただ一つの真実に生き得る道を淳々と説いてゆかれたのです。常陸国鹿島・行方地方を中心に下野・下総、あるいは遠く武蔵にまでもその伝導の歩みをのばされたようであります。それは、七百年前の荒れ狂った関東の大地に浸透してゆく困難な伝導の旅でありました。
そして、それはまた親驚さまにとって、二十年前六角堂に参寵のおりに救世観音の夢告にご切群生に聞かしむべし」と言われであった使命感でもありましたでしょう。

ある時は冬の目、行き暮れてとある一家に宿を乞われたのですが、邪険に断られ雪にうもれて進むことも帰ることもならず、軒下の石を枕に憩われたこともありました。しかし、彼岸の慈光に照らされて静かな和
たたずまいみに包まれた親驚さまの作に、やがてその家の主人日野左衛門も思わず心打たれ親驚さまのお心に触れ、み教えに生きる同行となったといわれます。この大門の道円坊の跡は、今は茨城県大田市に移り枕石寺として、寺宝の枕石と共に広く世に知られております。また、親驚さまの伝導の浸透に嫉妬した山伏弁円は、板敷山上に護摩壇を設けて親驚さまを祈り殺さんとし、また幾度か道中に待ち伏せて害さんとして果たさず、ついに親臨時さまの草庵になぐり込みをかけたのでしたが、しかし、親臨時さまの無為の尊容に打たれて前非を悔い、み教えに帰したといわれます。今に残る板敷山大覚寺は、その弁円・明法坊の跡であります。
こうしたいろいろな困難と迫害を越えて、親驚さまの伝導は、静かにしかし遣しく続けられたのでした。しかも、親鷲さまが最も関心を持たれ力を尽くされたのは、関東の大地に地を這うような苦闘の中を生きる一般の貧しい農民の人々でありました。「親驚の関東の門弟団はすぐれて土民的である」といわれるように、苦悩する農耕土民としての一般の人々の救いこそ、親驚さまが最も心されたことでありました。そして親驚さまが本当に伝導に全力を注がれた元仁元年頃から僅か十年程で、関東における門弟数万の多きに達したものといわれております。
しかし親驚さまは、新しい教団を作ろうとか寺院を建立しようとかいうことは夢にも考えられませんでした。否、そういうことは厳に戒められておられます。それは、「救い」とは、一人一人が自らの人生と対話一人一人が如来との出会いの中にこそあるという信念からでありました。それ放に、親驚さまを慕いみ教えに帰する数万にも及ぶ多くの人人を持たれても、親驚さまは生涯にわたって、自ら師たる自覚を持たれたことがなく、み教えに帰する人は全て如来への真実の道を共に歩む御同行御同朋であり、親驚さまご自身、人に対して門弟とか弟子とかいった意識は一つも持たれなかったのでした。
「親驚は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にでもさふらはめ。弥陀の御もよほしにあづかって念仏まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり」
有名な「歎異抄」にしるされた親驚さまのお言葉であります。こうした親驚さまの真撃な伝導の歩みの跡を、しっかりと組織づけみ教えを繰り返し温め固めていったのは、親驚さまの身辺にあった性信・真仏・善性・順心・頼重・顕智・慶信など、極めて開けた若く有能な一部の知識層の人たちでありました。
そして門弟の人たちは、名村落の大きな民家を道場と定め、毎月一回定められた日にそこに集まり、お互いの領解や疑問を話し合って、信仰や親睦を深めてゆきました。そして、それを取り仕切ったのが各道場主であり、また幾多の各道場をまとめたその地方の門弟団グループの代表者でありました。
中でも横曽根門といわれる門弟団の代表者たる性信は、親驚さまが関東に入られてから直の門弟で、親驚さまからもっとおM信頼され、また全関東の門弟団の総帥として、良く親驚さまの伝導を助け、後に親驚さまが京に帰られてからもよく全関東の門弟団を守り大活躍をされたのでした。
まだ、真仏とその女婿顕智によって代表される高田門徒は、最も数も多く財力もあり、帰京された晩年の親驚さまの生活をよく助けていったようであります。
さらに鹿島門徒の代表者順信は、親驚様や性信亡き後、よく京の覚信尼を助け大谷廟堂を完成させ、幾多の困難の中を本願寺教団草創期に力を尽くしたことであります。
また、親驚さま亡き後、ようやく盛んになってきた当時の意義を正さんとし、「露命わずかに枯草の道にっかる」老骨を励ましつつ「一室の業者の中に信心ことなからんため泣く泣く筆をそめえ」「故親驚のおホセごとをさふらひしおもふき百分が一、からはしばかりをおもひいでまいらせて書き付け」た有名な軟異 の著者唯円坊も、この関東の門弟の一人であり、水戸郊外川和田の道場主でありました。
こうして、いつしか親驚さまが関東に入られてから二十年、主著『教行信証』を一応脱稿された後、布教伝導に全精力を尽くされるようになってからもほぼ十年の歳月が流れゆきました。関東には親驚さまのみ教えによって多くの人たちが、凡愚の人間生活のままに信仰に生き、真実の生き甲斐を喜ぶようになってまいりました。そして、この僅かの期間お念仏の同行は数万の多きに至り、なお燦原の火のような勢いにささえられて、親驚さまのみ教えは関東の大平原に広がってゆくかのようでありました。しかし、こうした中で親驚さまは、しだいに一人位しさを噛みしめて過ごされる日が多くなってまいります。それは、念仏の同行の数が多くなればなる程、門弟団としての組織化は進み、いつしかこれら多くの同行にかしづかれ人師として崇められる自身を、親驚さまは避けられなくなってゆくことでありました。また生活をもかけた各道場主たちの勢力争いもしだいに多く芽生え始めてまいりました。宗教の概念化というものを徹底的に否定され、教団化を避け、ために寺院の建立さえ許されなかった親驚さまにとって、それは耐え難い苦悩でありました。現実に教えを伝え保つことにおいて、門弟の組織化は必要でありましたでしょう。しかし、その必要とされる組織化の中において、み教えの命令}失わせるような悪業を芽生えさせるのも、罪深い人聞の常でありました。そうしたことは十分に知り尽くされる親驚さまでありましたが、しかしなぉ、それは親驚さまに限りない佑しさを噛みしめさせるものでありました。
「自分がこの地を離れ、遠くよりみ教えを説き、書面で意を尽くし話し合うようであれば、あるいは同行の人たちもまた道場主たちも、より考えてくれるのではないだろうか」
親驚さまは、伝導というものの深い反省の中から、しだいに帰京を考え始めて居られました。しかも、膨大な数になった門弟等の中には、少数ながら、親驚さまが最も嫌われた宗教を概念的にとらえ、小児病的造悪無碍の考えで悪業を重ねる不逗の輩も出はじめ、各地で領主地頭の規制も見られ始め、また鎌倉幕府の弾圧も噂されてまいりました。
文麿二年(一二三五〉性信ら門弟の強い要請もあってのことと思われるのですが、親驚さまは六十三歳にして、二十年住み慣れた関東を離一家をあげて二十七年ぶりの京を目指して旅立たれました。

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● 目次
一 わが放浪の記
  1. 筑紫路を行く
    —日本国家の源流を訪れて
  2. 明日香路を行く
    —日本の察明期をしのびて—
  3. 大和路を行く
    —奈良の都を訪れて—
  4. 美地乃久を行く
  5. 豊田路を行く
  6. 鎌倉を訪れて
  7. 吉野山を行く
  8. アルプス讃歌
    —還らざる遠き日の思い出—
二 中国の石窟を訪れて
  1. 敦埋への旅
    —上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—
  2. 雲山岡・柄霊寺・麦積山・龍門・輩県の各石窟を訪れて
三 やまもくれんの花白く(恵信尼さま伝記小説)
  1. 寿永の祈り
  2. 花かおる出会い
  3. 流転のいのち
  4. やまもくれんの花白く
四 久遠のしらべ
—親驚聖人のみ跡を慕いて—
  1. 動乱の世に—その出生と幼年期
  2. 道を求めて—比叡より吉水へ
  3. 大地に生きる—越後、そして関東の二十数年
  4. いのち燃ゆ—その老年期


目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

ご推薦のことば
龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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