道を求めて—比叡より吉水へ

比叡山横川は、比叡山の西塔・東塔と共に比叡三塔の一つとして栄えたところで、かつてここには、日本浄土教の元祖とも言われる恵心僧都が住まわれ、有名な『往生要集』や『弥陀来迎図』『十界の図』など創作された所であります。
幼い親驚さまは、この横川に入られてから、ひたすら仏教の勉学にいそしまれたのでしたoこの少年期から青年期に至る親驚さまの勉学がいかに真剣な情熱的なものであったかは、後年親驚教学の形成に、この横川の伝統的特異な学風である「恵心流」と言われる学風が縦横に駆使されていることからも、伺えるのであります。親驚さまは十九歳の時、大和の国に旅し、磯長の聖徳太子の御廟に参寵されて「汝の命根まさに十余歳なるべし」との太子の夢告を受けられたと言われます。こうしたお話は、親驚さまがその青年期において真撃な学究により聞かれたお心で、いかに生死を出離するかの問題に苦悩されたかをよく表しているお話ではあります。
後に、親驚さまの奥様となられた恵信尼さまのお手紙により親驚さまが、この比叡山で「どうそうつとめておはしまし」たことが知られます。親驚さまが、横川の常行三昧堂に不断念仏を勤める「堂僧」という一定の職になられたのも、あるいはこの頃ではなかったでしょうか。
常行三味堂の堂僧は、当時すでに政治性と僧階の立身出世主義のるつぼと化した「学生」と言われる比叡山主流の階層ではなく、また血闘争乱を事とするに堕した「堂衆」と言われた階層の人たちとも全く異質なものであり、この比叡山の二大グループから外れて、当時はすでに表面的には忘れ去られるような地位も低い存在でありました。しかし、それだけに当時の比叡山にあっては動乱相加の外に忘れ去られて、勉学にいそしむにはむしろ恵まれた環境であったとも言えましょう。親驚さまは、そうした堂僧として勤められつつ、いよいよ情熱的真撃な研究を励まれたのでした。しかし、その学解によって聞かれた親驚さまのお心はしだいに、自らの内に大きく展開される煩悩苦悩に即して、その救いを求める生命がけの対決となっていったのでした。親驚さまは、つくづくと思い極めてゆかれるのでした。
「元来仏教では、諸々の悪をなすことなかれ諸々の善を行えと教えている。しかし、人は本来他の動植物の生命の犠牲の上にしか生きられないような存在であり、この殺生悪一つ逃れられない私たちに、悪を断てとはどういうことであろうか。また、煩悩を断じて悟りに入るとは仏教の根本の教であり、それ故にこそ困難な断食行・廻峰行・礼拝行と数多くの修行の道は示されているけれども、愚かな自らを含めて世の大部分の人たちに、こうした断煩悩の行が果たして可能であろうか。横川の先哲源信和尚は、『予が如き頑魯なる者は、極楽の教行を学ぶ』と仰せられたが、源信和尚の如き天才にして、なお『予が如き頑魯なる者』と言われるとすれば一体、誰がこの断煩悩の行修を可能ならしめるのであろうか。
しかも、煩悩こそ人間性そのものと見るならば、その人間性の否定による人間の救いや悟りとは、そも如何なることであろうか。――最も救いを要するものは、実は捨てよといわれるこの人間性そのものではない捨てよと言われ、悪と知りつつ、なお捨てられぬ煩悩に苦しみつつ生死海たるこの世を歩まねばならぬ私たちの、真実の救い―――本当の生きがいある道を示すものこそ、一切を済度すると言われる大乗の仏道であると思われるが、ここ比叡の山には、選ばれた特殊の出家の者への教のみにて、私のような愚かな者、また、出家といった特殊の道をたどり得ず苦悩の生死海を歩む一般大衆への教は説かれていない。こうした者への救いの道は如何にあるのであろうか――」
親驚さまは、深く源信和尚の本源を尋ね求め、比叡の諸堂に祈念をこめ、自らに代表される一般大衆の救われる道を求めて苦悩されるのでした。
こうした親驚さまの耳に、いつしか響いてきたのは、かつては比叡に学び、今は京の街にあって専修念仏なる教を説き続けられる法然上人の噂でありました。法然上人は、今までの仏教が多く山岳にこもり、仏道を専門に修行する僧のみを対象として教行を励んだのに対し、街の近くに庵室をおき、僧も一般在家の人も全て隔てなく教え導かれておられるのでした。そしてそのお教えは、一般大衆の救われる道は修行でもなく煩悩を捨てることによるものでもなく、ただ現在の生活の中に念仏を称えることにより、僧俗・貴賎・老若の別なく救われてゆくと説かれると言う――。なぜであろうか。親驚さまは真剣に考えられるのでした。しかしそれは、人伝てに聞く噂の程度では、到底解ることではありませんでした。しかし、親驚さまの胸のうちには、しだいに確信にも似た一つの思いがつくられてゆくのでした。
「法然上人は、当代智慧第一とうたわれる高僧の方、その法然上人が自らを愚者とされて念仏の一すじに徹してゆかれるということは、そこに、何かがあるからであろう。しかも法然上人は僧俗・貴賎・男女の隔てない救いの道を説かれるという。それこそ『十方衆生』と呼び掛ける仏道の真実の姿ではないか。如来の大悲誠ならば、特殊の出家といった人のみでなく、煩悩に沈み苦悩にあえぎ一辺の行すらなし得ない十方衆生こそ、救われるベき対象ではないか。私の今の疑問今の苦悩こそ、こうした法然上人のような教えの中にこそ活路が聞かれるのではないだろうか。私も法然上人にお会いして、しかとこの耳にお教えを受けたい――」しかしそれは、断煩悩の行修を説く比叡山天台の立場にあっては許されるべきことではなく、また親驚さまご自身、二十年の比叡山での学究によって身に得られた天台聖道の立場は、簡単には捨て得るようなことではありませんでした。今までの聖道教の立場のまま生涯を没するかそれとも、全くその立場の相反するような新しい法然上人の専修念仏の中に自らの問題の解決を極めるか、親驚さまはそれこそ全身で悩まれ、比叡山峰に身を投げ伏して苦悩されたのもこの頃でありましょう。そして、ついに建仁元年(二0一〉親繍摘さま二十九歳の厳冬早々、専修念仏の門に入るか否かの最後の決定をかけて、京都六角堂に百日の参龍を志し祈念されたのでした。
京都六角堂は、日本仏教育ての親であり、そしてまた、在俗生活のまま仏教に帰依し在家仏教を実現せんとされた聖徳太子の建立と伝えられ、その御本尊救世観世音は、聖徳太子の本地仏として当時上下の崇敬を集めておりました。
建仁元年、おそらく年初厳冬の中より始められたこの六角堂の参龍祈念は、火の気も許されない文字どおり命懸けのものでありましたでしょう。一月・二月・三月と時は流れ、凍りつく大地も春の日差しにいつしか溶けて水もゆるむ参寵九十五日の暁、ふとまどろまれた親驚さまは、夢の中に救世観世音菩薩のお告げを得られたのでした。
行者宿報設女犯(そなたは、前世よりの約束で妻を持つことであろう〉
我成玉女身被犯(そして、自分は美しい女身と変りその妻となって〉
一生之間能荘厳(一生の問、共に立派に暮らして)臨終引導生極楽(臨終には、かならず導いて極楽に生れしめよう〉救世観世音菩薩は、さらに続けて「この文はわが誓願なり、一切群生に説き聞かしむべし」と告げられたのでした。親驚さまは驚き目覚め、そして思わず数行の感涙に鴫ばれたのでした。
「この告命こそ、煩悩の生活を捨てずとも、捨身の行修によらずとも、人間性のまま在俗生活のままに一切を救わんとする如来大悲の宣言ではないか。されば今こそ、僧俗・貴賎・老若男女を問わず一切を救わんと説かれる法然上人の専修念仏の教えの中に身を投ずべきである」
親鷲さまは、救世観世音の告命に感涙されつつ、直ちに東山吉水の法然上人の禅房を訪れられたのでした。
時に法然上人は六十九歳、安元元年(二七五〉初めて専修念仏を唱導されてよりすでに二十六年、円熟の極に達せられた上人であり、その吉水教団も全盛を極めていた時でありました。
人間性と救済、捨戒と念仏との間題に悩み、自己の救いの道――同時に大衆の救われる仏道を求めて苦悩される親驚さまが、六角堂の救世観世音の夢告により意を決してこの法然上人を訪れられた時、円熟の師法然上人はこの二十九歳の若き親驚さまと対座されて、ただ一筋に「よき人にも悪しき人にも同じように生死出ずべき道」「後世たすからん道」を静かに深く説いてゆかれたのでした。
親驚さまは、後年恵信尼さまのお手紙によれば、それから百日の間
「降る日も照る日もいかなる大事にも」かかさず法然上人のもとに参り、繰り返し繰り返し専修念仏の教えを問い質されたのでした。
「何で念仏することだけで救われるのか」「なぜ修行も持戒も要しないのか」「どうして人間煩悩を捨てずに念仏で救われるのか」親驚さまは繰り返し法然上人に問い質されたことでありましょう。それに対して、法然上人の答は実に明快な確信に満ちた答でありました。そして親驚さまは、この百日の吉水聞法によって、ようやく一つの確信に立たれたのでした。それは、ただ一つの偽りのない真実として、如来が真実であり大悲であり、大悲なるが故に一切衆生をただ念仏により救わずんば止まずという本願があり、それ故に本願の教えに順じて称名するとき、そこに救いの道があるということでありました。この信念に立って法然門下に加わられた親驚さまは、この専修念仏の道を極めんとそれ以来ひたむきな勉学にいそしまれるのでした。それは、日野学系の血の流れを受けた親驚さまの極めねば止まぬ生来の性格でもありましたでしょう。
親驚さまは、この新たな浄土教の立場に立って、比叡山二十年の勉学を顧み、新たに浄土三部経から浄土教学伝統の祖師方、曇驚・善導・源信の教学を改めて見直されてゆかれたことでありましょう。今に残る親驚さまの「観無量寿経」「阿弥陀経」集註に、当時の親驚さまの轍密な研学の跡を、私たちは今に偲ぶことができるのであります。
こうした真撃な精進を続けられる親驚さまが、しだいに法然門下で頭角を現してこられたのも当然でありましょう。
いつの日か、親驚さまは聖観坊・聖信坊・念仏坊など他の門弟たちと専修念仏義の根本にふれるデスカッションをして、師の法然上人の讃許を得ておられます。いわゆる「信心詩論」として歎異抄・親驚聖人伝絵などに記された有名なお話であります。
そして、元久二年(一二O五)親驚さまは入門以来五年目にして、早くも、師法然上人の主著『選択本願念仏集』の書写を許されておられます。この本は、法然上人生前には秘本としてかたく秘され、数多くの上人の門弟の中でも上人の生前にこの本の書写を許された者、親驚さまを含め僅か六人に過ぎなかったのでした。
また同じ年、法然上人の肖像の図写をも許されておられます。そして、この元久二年には、おそらく親驚さまは終生の妻である恵信尼さまと結婚されたものと思われます。
かくて、入門僅か五年にして親驚さまは師法然上人の専修念仏の核心にふれ、『選択集』の付属も許され、また結婚によって人間的安定も得られて、ここに親驚さまは、終生変えることのなかった偏依源空の立場を固められ「たとえ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべからずさふらふ」とまでの確信を得られたことであります。しかし、真実我執を離れ、白からは偏に法然によると自覚されつつも、自然に法然の教学を越えて絶対他力の信を喜ぶ世界に安住した後年の親驚さまの不動の信念を固めるまでには、なお親驚さまは、大いなる試練の中に人聞のいかなるものかを見つめて行かなければならないのでした。法然上人の教団は、三十年というごく短期間に急激に膨張し、僧俗共に含む一大勢力にのし上った教団でありました。そして元久の頃には「かの門弟世間に充満す」(皇帝紀抄)と言われる程になってまいりました。したがって、多数の中には熱心なあまり他の宗旨を極端に誹諒したり、また一方では破戒乱行におよぶ者も含まれてまいりました。
この法然教団の急激な膨張と、画期的なその浄土教思想に抵抗を感じたのは、当然のことながら南都・北嶺の仏教界でありました。そしてこれら仏教界よりは、元久の初め頃からたびたび法然教団の弱点を突き、法然教団弾圧を院の庁に訴えておりました。
そうした情勢の中で、建永元年十二月後鳥羽上皇熊野行幸のお留守中におきた院の女房と念仏僧との不祥事が直接の因となって、翌承元元年(一二O七〉二月ついに法然上人の教団は解散を命ぜられ、一部不祥事に関した門弟など四名は死罪に、また法然上人はじめ教団の主軸的門弟八人がそれぞれ流刑に処せられたのでした。
親驚さまも、その中の一人として越後国府に遠流と定められました。しかし、院の政庁が法然教団にかかる
弾圧を下した真意は、実は、ひとにぎりの不行跡な僧俗の行動に逆上したり仏教界よりの圧力があったというようなことより、念仏称名の陶酔の中に自然に多数の群衆を組織化していった法然教団のあり方自体に、大きな畏怖をもったことにあるように思います。その結果が、法然上人はじめ主軸的門弟の遠流となり、ために法然教団は一時全く離散し都より影をひそめたことでありました。

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● 目次
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  3. 大和路を行く
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  4. 美地乃久を行く
  5. 豊田路を行く
  6. 鎌倉を訪れて
  7. 吉野山を行く
  8. アルプス讃歌
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  1. 敦埋への旅
    —上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—
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  2. 花かおる出会い
  3. 流転のいのち
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  1. 動乱の世に—その出生と幼年期
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  3. 大地に生きる—越後、そして関東の二十数年
  4. いのち燃ゆ—その老年期


目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

ご推薦のことば
龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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