やまもくれんの花白く

建長五年(一二五三〉恵信尼は七十二歳の時こうして夫親驚のもとを離れ、子等の待つ越後の自らの土地に旅立ったのでした。
恵信尼は親驚と結婚してより五十年、その間京都より越後、越後より関東、関東より京都とわたり、さらに今また、夫親驚と別れて「雲のよそなるよう」に遠く相隔てて越後に移り住まわねばならないのでした。しかも今は早世した娘の子らを守り育むために、恵信尼にとってはどうしても堪えねばならぬえにしでありました。
しかし恵信尼には、この激しく厳しい流転の生涯を通していよいよ深く夫親驚の愛情が味わわれ、雲のよそなるように遠くお互いに離れれば離れるほど、その愛情の奥に輝くみ仏の大悲が身にしみて思われてくるのでありました。こうした信念に支えられて、七十の坂を越えた老恵信尼は、幼い孫達の世話や土地の管理にかいがいしく立ち働くのでした。
京都にある夫親驚の上にも、また平穏な老境は恵まれなかったようであります。建長七年親驚八十三歳の年には寄寓先が火災にあって全焼し、親驚一家は三条富小路の弟尋有のいた善法坊にあわただしく移らねばなりませんでした。
しかもこうした中で、関東の門弟たちの動揺と不安を鎮めるために関東に下しであった長子善驚が、しだいに経済的権力的人間欲望の葛藤の中に若き身を誤らせ、ついに父親驚に反逆し、親驚の最も忌み嫌った呪術的な道に正当性を主張し、弥陀の救済を虚妄のことと詰ったり生母を継母と偽ったりして、関東の門弟たちを自分のものにしようとして大混乱を起こさせたのでありました。
建長八年、八十四歳の老親驚はこうした関東門弟団の混乱を鎮め正法を護持すために、ついに意を決して涙と共に長子善驚を義絶されたのであります。八十を超えた老親驚にとって、それは確かに堪え難き人間生涯の最大の苦悩であったことでありましょう。血涙をしぼるかのように「悲しきことなり」と書き残しておられます。
しかし、如来大悲の中に全てを乗托し、信の世界に生かされる命を生きる親驚は、こうした苦境にも決してめげず、きどらない自然な遣しさをあふれさせて、生命の最後の壮麗な燃焼を続けられるのでした。親驚は八十三歳から八十五歳にかけて、この苦悩の中に実に数多くの著述をなされておられます。尊号真像銘文・三経往生文類・愚禿紗・太子和讃・西方指南紗・入出二門偏・正像末和讃などなどそれらはいずれも浄土真宗の肝要を示し、後世に偉大な跡をしるしたものであります。
長子善驚義絶の悲しい知らせを、恵信尼は越後において受けました。子を生み子を育て、そしてその子の上に生涯の夢を託して子の成長をのみわが生きがいと思いつつ苦闘し、しかも最後にはその子に離れられ背かれてゆく女の生涯のわびしさを、七十五歳の老恵信尼はしみじみとわが身の上に思うのでした。しかもわが子は、夫親驚が生涯のいのちをかけて育てた関東の門弟を、自らの勢力欲・経済欲のゆえに惑わし、生みの母をもまま母と言いふらしてゆく――悲しくわびしい限りでありました。そして人生とは、こうしたものと知らされ、こうしたものと知りつつも、なお繰り返し繰り返し同じ轍の跡をふみゆく女の生涯――恵信尼はこの時ほど世間虚仮という言葉を、人聞の宿業の深さというものを胸痛いまで噛みしめたことはありませんでした。
しかしまた、こうした世間虚仮であり、この人の世に真実に頼れるもの何一つなきものゆえに必ず救わんとの、み仏の大悲の音声を、この時ほど恵信尼はわが胸に大きく響き聞いたことはありませんでした。
――あの子も、み仏の大悲の中にきっと救われてゆく。迷い苦しみあがくとも、所詮大悲の中の身勝手な悪あがきに過ぎないではないか。あの子が如来大悲の尊さも知らずに、悪業の渦の中に生涯をうずもれてゆくことは切なく悲しい限りだが、いつの日にか、夫も私も共に参るあのお浄土に、あの子も必ず、み仏の悲心に助けられて参るであろう――
そう思うとき、恵信尼には世を恨み人を恨む思いもなく、わが身の上に如来大悲の尊さを知らされた感激をいよいよありがたく思いつつ、せめて残された余生を報謝の生活として励みたいと思うのでした。
恵信尼八十一歳の秋十一月でありました。京の覚信より、父親驚がふとした風邪がもとで日々衰弱してゆくと急使をもって知らせてまいりました。恵信尼は信蓮一房、益方と相談した結果、益方が代表して親驚の見舞と看病に急ぎ京に上りました。
しかし、九十歳の老親驚はついにこの年、弘長二年十一月二十八日弟尋有の坊舎で、その偉大な生涯を眠るが如く静かに閉じたのでした。
この知らせは、葬送をすませた翌十二月一日末娘覚信より書き送られ、十二月二十日恵信尼のもとに届けられました。すでに常々死を見詰め十分に覚悟していた恵信尼ではありましたが、現実に夫親驚の死の知らせに直面したとき、やはり恵信尼は感懐胸に溢れるのを禁じ得ないのでした。
恵信尼はそれより静かに喪に服しました。
そして喪の明けた翌弘長三年二月十日、八十二歳の老恵信尼はわが娘覚信に長い手紙で、夫親驚の思い出を語りつつ、親驚の生涯とその人となりを生きるが如く浮彫して覚信に訴えるのでした。親驚の比叡山でのこと、六角堂参龍のこと、法然上人のもとに入門した当時のこと、また生涯かけて夫親驚がいかに真撃にこの他力の信を究めていったかということなど細かく鮮明にいがき、さらに、かって四十数年前に夢の中で夫親驚が観音菩薩の化身であると知らされ、それ以後自分は心の奥に固くそう信じて仕えてきたことを、まるで昨日の出来事のように初めて鮮明に明かして、
「殿が生きておいで遊ばす聞は申す必要もないのですが、お亡くなりになられた今こういうお方であったと、あなたもお心に留めて下さい」
といい、さらに、
「こういうお方でありましたから、その御臨終が眠るが如く安らかで、なにも特別な奇瑞などなかったとしても、わたしは殿の御往生を決して疑いません」
と毅然として述べておられます。
親驚の亡くなられた弘長二年には、越後は酷い凶作に見舞われました。八十二歳の老恵信尼は、農作の使用人たちもしだいに失せてゆく苦境の中で、小黒の遺児たちゃ都に上った益方の子供たちの世話をしながら、これらの子たちを飢死させぬよう懸命に立ち働くのでした。こうした状態の中で、恵信尼は夫の墓前に何一つ送られないことを娘に詫びながら、「世聞を恨む心もなく」沢山の孫たちの世話に明け暮れる日々の中で、「何となく母親になったような気持であります」と、八十二歳の老いの人生を雄々しく乗り越えてゆかれるのでした。
越後の凶作と飢謹は、翌文氷元年も続きます。恵信尼も今年八十三歳、「偉い方の書かれたものによると、一夫に先立たれた妻は大抵三年目には死ぬといわれているそうだから、わたしも今年は夫に先立たれてちょうど三年目、きっと死ぬことだろう。せめて今は、自分の墓を生きているうちに立ててみたい」と思い、塔師に丈七尺の五重の墓石を注文されたのでした。
「のう栗沢、(信蓮房のこと〉塔はなかなかできてこないの」
「おばあさま、そんなに急がれでも駄目ですよ。何せこの飢龍でこの辺はもう日々食べる算段だけで精一杯なのですから」
「塔師の方が、忘れてはいまいの」
「はい。忘れたりはしていないのです。先日も私が塔師の方に会いましたとき聞いてみましたら、仕上る算段になっていますと申しておりましたから、少々おくれてもそのうち必ずできることです」
「わたしの生きているうちにできるかしら。もしできないうちにわたしが死んだら、そなた建てて下されの」
「大丈夫でございますよ。おばあさまはとてもお元気ですから、きっとご自分ででき上がったお墓をご覧になれますよ。万一おばあさまがお亡くなりになった後なら、私がなんとしても建てまずから御安心下さい」
「ありがとうよ。それからわたしが死んだらそのお墓のかたわらに、やまもくれんの一株を植えて下され」
「こぶしの木ですか。こぶしならすぐ手に入りますからお安いことですが、こぶしがそんなにお好きですか」
「ええ、わたしはこぶしが大好きですよ。やまもくれんは春に先駆けてあの冷たい残雪の中でもまじり気のない白い花を咲かせ、、来る年も来る年もただ純白の花しか咲かせないのです。何かあなたのお父さまの御一生のような感じがしますよ。それに、お父さまにわたしが初めてお会いしてお話しを伺ったときの都の祇園林の道にも、やまもくれんの花がひらひらと散っていましたよ。まるで眼に見えるようーきれいでしたよ。もう六十年も前になりますね」
二年続きの大凶作と飢謹に見舞われた越後も、その後危機をまぬかれ、八十の坂を越えた恵信尼もなお健やかに年を送られるのでした。

京都でも、関東門弟たちの協力によって親驚のお墓も立派にでき上がり、覚信はそのお墓を守りつつ上洛する門弟たちの世話をなし、また小野宮禅念との良縁に恵まれて再婚し、ようやく生活の安定も得ることができたのでした。そうした覚信からたびたび便りが恵信尼にもたらされ、また時として小袖なども送られ、恵信尼はその便りを何よりも喜びながら、筆まめに便りを娘に送られるのでした。
恵信尼八十七歳の文氷五年三月十二日、夜になって急に明早朝に飛脚が出ることを知らされた恵信尼は、暗い行燈の光りの下で、娘や孫たちを懐かしくしのびながら急いで覚信あての筆をとるのでした。
「幸便がありますので喜んで書きます。今年までとても生きていようとは思いませんでしたのに、今年は八十七だかになります。……今では往生させていただく日時を待っているだけですが、年こそ恐ろしい程とりましたが、まだ咳することもありませんし、唾を吐くこともなく、腰や膝を叩いてもらうようなこともなくすんでおります」
とまず自らの健康を知らせ、また先便で覚信の送ってくれた小袖を喜んで、
「また磨井の者のもたらして下さった幸便に、綾の絹を送っていただいたこと、お礼の申し上げようもございません。今は往生の時を待っている身ですから、この下されものが最後の物になるだろうと思っています。ずっと以前下さった綾の小袖も、最後の死装束の用にと思って大切に保存しております。ほんとに嬉しくてなりません」

と心から礼を述べ、また親しかった人達や、孫達それぞれのことを限りなく懐かしみつつ、繰り返しその消息をたづね、
「ああこの世に生きでありますうちに、今一度お互いにお目にかかれることがありましょうか。わたしはいずれ極楽へお参りさせていただきまずから、何事も明るくはっきりと分かることでしょう。どうか皆さんお念仏を心にかけて下さいね、そしてお互いに極楽に参り合わさせていただきましょう。極楽へ参れば皆さんとお会いできて、何事も明るく楽しい団壌の中に生きられることですもの」と祈るようにお念仏を勧めておられます。
この手紙は、今に残されてある恵信尼の手紙の最後のものでありますが、八十七歳の老恵信尼が、夜薄暗い行燈の下で千六百字にもおよぶ長文のこの手紙をしたため終った時は、すでに夜も十時になっていました。そして手紙には限りない愛情と深い信仰の生活の輝きが遺憾なく溢れております。
しかし、さしも元気に健康に恵まれていた恵信尼も、この手紙より二年後の文永七年(一二七O〉
わが子信蓮房や苦労して育てた孫たちに見守られつつ、眠るが如く安らかにその生涯を閉じ、懐かしい夫親驚の待つお浄土に旅立たれたのでした。

「あら、おじさま、これ何の木」
「やまもくれんの木だよ」
「花が咲くの」
「ああ咲くよ。真っ白い大きな花だよ」
「あたい真っ白い花好きょ。これ、おばあさまの花なのね」
「おお、そうだよ。おばあさまの花だよね。お前も大きくなったら、こんな真っ白い花のみ咲かせるような、きれいな人になるんだよ」
母恵信尼の遺骨を、母自ら生前に造った五重の石塔の下に収めて、生前母から言われたようにやまもくれんの一株を傍らに植えていた信蓮房は、いつか晴ればれとした明るい気持ちが胸いっぱいに広がるのでした。
――このやまもくれんの木は、来年の春には校いっぱいに純白の花を聞かせるだろう。そして、再来年もまたその次の年も、ちょうど母の生涯のように、やまもくれんは純白の花をしか聞かせないだ信蓮房は、力強くやまもくれんの根本を足で踏みならすのでした。

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● 目次
一 わが放浪の記
  1. 筑紫路を行く
    —日本国家の源流を訪れて
  2. 明日香路を行く
    —日本の察明期をしのびて—
  3. 大和路を行く
    —奈良の都を訪れて—
  4. 美地乃久を行く
  5. 豊田路を行く
  6. 鎌倉を訪れて
  7. 吉野山を行く
  8. アルプス讃歌
    —還らざる遠き日の思い出—
二 中国の石窟を訪れて
  1. 敦埋への旅
    —上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—
  2. 雲山岡・柄霊寺・麦積山・龍門・輩県の各石窟を訪れて
三 やまもくれんの花白く(恵信尼さま伝記小説)
  1. 寿永の祈り
  2. 花かおる出会い
  3. 流転のいのち
  4. やまもくれんの花白く
四 久遠のしらべ
—親驚聖人のみ跡を慕いて—
  1. 動乱の世に—その出生と幼年期
  2. 道を求めて—比叡より吉水へ
  3. 大地に生きる—越後、そして関東の二十数年
  4. いのち燃ゆ—その老年期


目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

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龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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