花かおる出会い

寿永の年(一一八二)より二十年余り、世の中は陣営えようもない激動の一時を経て大きく変りました。
九条家の越後荘官三善為則に、一人の女児が恵まれた翌寿永二年七月、源義仲は早くも入京、平家は安徳幼帝を擁して西海に逃れ、その旭将軍と言われた義仲は寿永三年正月には早くも義経らの軍に敗れて莱津で敗死、寿永四年(二八五・文治元年〉三月には、あの一時の権勢を極めた平家が、義経を中心とする源氏の兵に攻められて、一門ことごとく壇の浦に滅亡してしまいました。そして、その年の十一月には、源頼朝が諸国に守護地頭を置き、ここに武門専制の鎌倉幕府の世が聞かれてまいりました。
それから四年、文治五年春には平家追討に大功のあった義経が衣川に打たれ、夏、頼朝はそれを口実に大軍を率いて奥州に下り、名門の奥州藤原氏を滅ぼしてしまいました。
もう鎌倉の武家政治は、完全に日本全土にその基礎を固め、新しい世代が着実に歩みはじめたのでした。長らく院政の頂点にあって、公卿を、平家を、そして源氏を手玉にとるように翻弄しつつ、ひたすら皇権の確立を願って策を弄し、頼朝から「京の大天狗」との異名までつけられた後白河法皇も、建久三年(一一九二〉には夢敗れて淋しく世を去られたのでした。
しかし、鎌倉幕府の確立と統一のおかげで、とにもかくにもあの激しい動乱は収まって、京の街にも再びささやかな平和と繁栄が訪れてまいりました。
寿永元年に生れ、父三善為則の切ないまでの祈りの中に育った為則の女子も、今はもう娘ざかりに成長していました。そして、下扱官吏の娘や地方豪族の娘が誰でもするように、彼女もここ数年、父もお世話になった摂政九条家に仕えました。生れつき聡明だった彼女は、貴族的深い教養もすっかり身につけて、今はもうその仕事がいかにも板についたようでありました。かつて王朝中期の後宮に、華やかに才援群がり王朝文芸の花聞かせた貴族社会の風潮は、鎌倉の新しい時代の中にも、この古い都にはまだ底流として諸々に残されであったことであります。
「筑前」――伝統の香り高き公卿九条家に仕える身の、彼女の名前でありました。

ほととぎず幽かに聞こえるある初夏の昼下り、九条家奥女中の部屋には、今日のお客法然さまと縛
空さま二人のお坊さまを送り出した後の、ほっとしたくつろぎが流れておりました。
「法然さまは、よくこちらにお出になられますこと」
「そうですわね。大股さまもここ数年は源通親さまのことで、それはそれはお難儀遊ばされ、一時は見るもお気の毒なほどおやつれ遊ばしたこともございましたが、その頃より大殿さまの、法然さまへのご信頼ご師事は大変なものなの。今は再び若股さまが摂政におなり遊ばしてお栄えになっておられますけれど、源通親さまのご策謀で大殿さまが摂政関白のご大任をお引き遊ばされた頃、大殿さまのお苦しみを本当にお慰め申し上げお救いになられたお方こそ、法然上人さまでございましょう」
「まあ、そうでございましたの。どうりで法然上人さまのお出なされたときの大股さまのお喜びょうは、格別でございますわね」
「このところ法然上人さまのお供で、時々お見えになる、ええ、今日もお見えになったあの若い立派なお坊さまは、何とおっしゃいますお方でございましょう」
「ああ縛空さまのこと」
「綜空さまっておっしゃいますのね。静かな立ち居振る舞いの中にも、とてもお強い凍々しさがあふれていらっしゃいます。ちょっとお痩せぎみの面長なお顔に強く太い眉、その下のほんとにおやさしそうなお眼liすばらしいお方ですのね」
「おや、若葉さんは大変なお熱の入れようですこと」
「あら、弥生さん、そんなこと――いやですわ」
「ホホホ……若葉さん赤くなったわ」
「まあまあ、お二人ともいけませんことよ。でも、縛空さまは、ほんとにご立派なお坊さまでいらっしゃいますよ。何でも日野さまの御分家の方の出のお方で、亡き後白河法皇さまの御近侍だった日野範綱さまや、文章博士日野宗業さまの甥御に当たられるのだそうです。
縛空さまは、九歳のお小さい時から比叡山にお入りになって、二十年も随分お難儀をされたらしいの。日野さまの出とはいっても何分御分家の方であり、それにお父さまの日野有範さまも、従五位というお公家では低いお地位でいらっしゃいましたでしょう。高いお地位のお公家さまのお子さま方が沢山いらっしゃいます今の叡山では、それこそ陽のあたらないお立場でいらつしたわけね。なんでも横川の常行三味堂の堂僧をずっとお勤めになっておられたのですって。
それでも、日野さまご一門は、ご本家もご分家も皆さまみんな学者でおいででしょう。そんな日野さま御一門の出であられるだけに稗空さまはとても頭のよいお方で、難しい比叡山天台の学問をそれは熱心にお勉強なされたらしいの」
「まあl筑前ざま、そんな立派な縛空さまがまたどうして叡山を離れられて、法然さまのところにおられるのでしょう」
「それがね、縛空さまは叡山で長いこと勉学遊ばされた末に、仏教ということに大変な疑問をお持ちになられたのですって。わたしなど、とても詳しくは分からないのですけど、仏教では、いろいろと修行をして煩悩や悪業を捨て離れて悟りを得ると言いますわね。でも、縛空さまが勉学され御思案を究められたのは、人間と煩悩、人間と救いの問題で、果たして人として煩悩を捨て離れるというようなことができるのだろうか、人が本当に煩悩を捨てるとはどういうことだろうかと、随分お悩みになられたそうですわ。人は、誰でも異性の方を恋い慕いますわね。そんな煩悩を、人として果たして捨て離れることができるかしら。もし立派な方があって、修行によってそうした煩悩を全く捨て離れられたとしたら、その方にはもう悩みも苦しみもないことでしょう。でもそうした方はもう何か人間とかけ離れて、そこには悟りも救いも問題にならないことになるでしょう。現実に、悩み苦しみ救われたいのは、いろいろな悪業のもとと知り離れたいと思いつつ、なお恋せずにはおられないような人間性であって、そうした人間性を捨て離れるのではなく、この人間性ゆえの苦悩を救い人聞を真に生かしてゆけるようなものこそ真の仏道ではないだろうかと、縛空さまはお考えになられたのですって。また、土日から殺生ほど重い罪はないとしているのですけど、よく考えれば、人は他の動植物の命の犠牲の上にしか生きられないようにできているもので、この殺生悪ひとつ逃れ得ないような人聞に悪業を捨てよとはどういうことでしょう。さらにまた、修行とは何でしょう。断食行・回峰行・礼拝行などなど修行の方法は無数に示されてはおりますが、それはみな特別な僧・出家の人であってはじめてできるので、とても一般の普通の生活では不可能なことです。私たちは、それこそ煩悩罪業の菖藤のるつぼより外に抜けられないような生活の中にあるでしょう。そういう人の救われる道、こうした人聞にも本当の生きがいのある道を示し得るものであってこそ真の仏教であり、このような罪業深い凡夫の苦悩を救い得てこそ如来の大悲ではないかと、縛空さまはお考えになられたのだそうです。……でも、紳空さまがいくらそんな道を求められても、今までに仏教をお教えになられた方々のお示しは、立派なお坊さまのような方へのお示しだけで、とても煩悩の底にうめくような人間の救いの道など示されてはなかったのです。紳空さまはこの道を求めて、それこそ文字どおり比叡の嶺に泣き伏して苦悩されたそうですの」
「まあーそうですの。縛空さまのお悩み分かるような気するわ。それで縛空さまはどうなされました……」
「ええ、縛空さまが、人間と煩悩・煩悩と救済、そしてそれの解決による本当の生きがいある生命を求め苦しまれておられるとき、縛空さまのお耳に法然上人さまのお噂が入ったのだそうです。法然上人さまは、今までのように、山の中のお寺に入って限られたお坊さまに法を説き修行されるのではなく、京の街にあって、しかも一般の人達に仏教を説いておられます。そのお教えは、愛欲我執の凡夫の救われる道は修行でもなく煩悩を捨てるのでもなく、ただお念仏のひとすじにいかなる罪人も救われるということだそうです。今までも仏教は、仏さまの大悲を説き人聞の救済を説きながら、現実には厳しい断煩悩の修行を示しお坊さまの限られた世界にしかできないようなものとなってしまい、本当に煩悩の生活に悩む一般の人達には寄り付けないようなものだったのね。紳空さまは、こうした新しい法然さまのお教えの中にこそ、御自分をも含めて全ての人の救われる真実の道があるのではないかとお思いになられたのだそうです」
「まあ、とても斬新なお考えね」
「ええ、しかし縛空さまはほんとに誠実なお方で真剣なのね。そう思われでも簡単には比叡山をお離れにはなれなかったの。二十年真剣に学びとられた緯空さまの天台教学のお立場は、簡単にはお捨てになれなかったのね。今までの聖道教の立場のまま生涯を没するか、それとも全く相反するような新しい法然上人さまの専修念仏の教えの中に自らの問題の解決を究めるか、紳空さまはそれこそ全身でお悩みになられたのだそうです。しかし、簡単に結論は下されずお苦しみのまま、京の六角堂に百日参寵を志され最後の決断を、聖徳太子さまの御本地といわれる六角堂の救世観世音さまに御祈念遊ばされたのだそうです。もう四年も前、建仁元年の厳冬のことですの。たださえ凍りつくような冬の目、火の気も許されない六角堂のお龍りは、それこそ命がけの御祈念でございましたでしょう。お寵りなられてから九十五日の暁、夢うつつの中に縛空さまは救世観世音の御示現をいただき、それにより決然と意を決して直ちに叡山を離れ、法然上人さまのもとにお出になられたのだそうです。それからの綜空さまの、この新しい仏教のお教えについての御勉学は大変なもので、今ではすっかり法然上人さまのお眼に適い、お若いけれど吉水教団の中でとても大切なお方だそうですわ〕
「まあ、筑前さまはよくご存知でおられますこと。筑前さまこそ大変なお熱のお入れようよ」
「あら、そんなんじゃございませんの。これはさる日、大殿さまが法然上人さまからお聞きになられましたことを、わたしにお聞かせいただいたままですのよ。……でも不思議だわ。初めて縛空さまが法然上人さまのお供でこちらにお見えになられた時、わたしどこかでお目にかかったことがあるような気がしてならなかったの。でも、どうしても分からなかったわ。それが、この前大殿さまから縛空さまのお話をお伺いした時、はっと思い出しましたの。四年前建仁元年の二月、とても寒い目だったゎ。比叡やまおろしの寒風に京の街が白く凍りついたような目、大股さまのお供でわたしも六角堂にお参りをしましたの。その時、暗い本堂にじっと座った若いお坊さまがおられたわ。そのお坊さまは面やつれして、しかし、眼だけはとても輝いて一心に合掌しておられました。着くたびれた墨染のお衣に身をつつまれて、しかしそのお姿全体が何か神々しい威厳に包まれていて、打たれるような感じがして覚えていましたの。それが、綜空さまでしたわ。大殿さまのお話で初めてそれと気付いたのですけど、その時縛空さまは大変な問題をお心の中にお秘めになって、命懸けで救世観世音さまにお祈りされておられたのでしたわ――」
話しつつほのかに上気し、夢見るような眼差しを上げた筑前の頬を、快い初夏の涼風が流れてゆきました。

それより十月ほどの後――――
元久二年〈=δ五〉の長い冬もようやくに明け、祇園林には点々とやまもくれんの純白の花が咲きほころびておりました。
「おや、筑前さんではありませんか」
「あら、縛空さまー」
「ちょうどよいところでお会いいたしました。私はこれから法然上人さまのもとにまいるのですが、まだ少し時聞があります。およろしかったら少しお話しいたしましょう。筑前さんはお使いでございますか」
「はい、大殿さまのお使いで出ましたのですが、もう御用をすませましたの」
「そうですか、ちょうどよいところでした。偶然にあなたにお会いできましたことも、きっとみ仏さまのお導きでありましょう。筑前さん、わたしは先日師の法然上人さまから大変なお話しを伺ったのです。それはね、筑前さん、あなたと結婚してはとのお勧めのお話しなのです。筑前さんはお聞きになりましたか」
「はい、ほんの三日程前に大股さまからお伺い致しました。でも、あまりのことにわたくし……」
「そうでしたか。驚かれたのも当然でしょうね。私も初め上人さまから突然お話しをいただいた時には、ほんとにびっくりしました。でも、よく考えて私は上人さまに、よしなにお計らい下さいますようお願い申し上げたのです。たびたび九条のお殿さまのお屋敷で、あなたにはお目にかかってよく存じておりましたし、あなたの立ち居振る舞いの隅々に溢れる奥ゆかしく温かなお人柄に、秘そかにあなたをお慕いして居りましたのも本当のことなのです。それが、つい師の上人さまにもお見通しになられたのではないかと思います」
「まあlお恥ずかしゅうございますわ。わたしも縛空さまのこと、前から大殿さまからいろいろお伺い申し上げておりましたの。それだけに、ご立派な縛空さまにわたくしなどとても……。それに縛空さま。ぉ坊さまも近頃では、ほとんどのお坊さまが妻帯されておられますけど、それは正式なご結婚のようなことではないと伺っておりますわ。それなのに、縛空さまのお話は大股さままで介しての正式のお話のようで……わたくしただもうびっくりして――」
「ええ、筑前さん。私もそれをあなたにお話し申し上げたかったのです。私は、とてもあなたのお言葉のような立派な僧などではないのです。恥ずかしいことですが、煩悩に沈み煩悩の繋縛を逃れられ.すさまようような愚かな者なのです。私は前に二十年も叡山におりました。その頃私も天台のお教えにより、一生懸命に煩悩を断ち、悟りを得ょうと努めました。でも努めれば努めるほど、私は奈落の底に落ち込むような思いでありました。不安と動揺に働突しながら、私なりに一生懸命仏教というものについていろいろと考えたのです。こんな愚かな私でも、救われ助かる道はないだろうかと。もし、み仏のお慈悲が絶対であり、大乗の仏法というものが普く衆生を済度するものであるならば、叡山のように特別な出家の道ではなく、また人間性を捨て去るような修行の道でもなく、人間性によりつつ人聞の救われる道、煩悩の人間性そのままが真実に生かされるような道があるはずではないかと、思い悩みました。しかし、叡山では特殊な出家という道におけるお教えのみで、私が思い悩みましたこうした道は叡山の仏法には許されない道であったのです。そして最後には、六角堂の救世観世音さまのお告げで私も決心させていただいて、叡山を去り法然上人さまのも
とにまいったのです」
「縛空さま、わたくし前に大股さまのお供で六角堂にお参りいたしましたとき、縛空さまのお姿を見ましたの。寒い、とても寒い冬の日でしたわ」
「そうでしたか。恥ずかしい姿がお自にとまったんですねー。筑前さん、私は法然上人さまのもとにまいって、初めて本当の仏法に目覚めた思いでおります。人間性のまま人間の救われる道―――煩悩にまどい罪深い私のような人聞が、み仏のお慈悲の中に精一杯生かされる道のあることを知ったのです。そして、この法然上人さまのみ教えに拠りつつ、救世観世音さまの私へのお告げを繰り返し噛みしめていった時、私は僧の結婚について一つの確信が持てたのです。筑前さん、おっしゃるとおり今までの僧には正式の、いや本当の意味での結婚ということはなかったのです。自然のおもむく姿として妻帯が黙認されてあるに過ぎません。今までの、出家という特殊な道を歩む人への教えである聖道教の立場からすれば、それは当然のことでありまた一種のごまかしでもありましょう。しかし、法然上人さまの仏教のお教えからすれば、そんなことであってはならないのです。単なるごまかしの妻帯ではない、正式の結婚生活しかそこには許されないと私は思うのです。ね、筑前さん。人間である限り、愛もはかない愛憎流転の煩悩にすぎないかも知れません。永遠の愛を口にすることはできても、人聞に永遠などあり得ないのも人聞の悲しき現実の姿です。でも、どんなに愛の流転が激しくとも、よしそれが苦悩と索漠とのおりなす交流であろうとも、二人の生活を解消したり別の生活を考えてその場その場の苦悩をごまかし逃れるのではなく、その苦悩と対決し苦悩をかみしめる底より、お互いにみ仏の願力を仰ぎゆく道を見出してゆく――それが人生の結婚というものではないでしょうか。単なる妻帯にはそんな厳しさもあり得ないのです」
「まあ、縛空さまー」
「筑前さん、私は今にして私にいただいた六角堂の救世観世音さまのお告げを、しみじみと味わうのです。
行者宿報設女犯(そなたは、前世よりの約束で妻を持つことであろう〉我成玉女身被犯ハそして、自分は美しい女身と変りその妻となって〉一生之間能荘厳(一生の間、共に立派に暮して)臨終引導生極楽(臨終には必ず導いて極楽に生れしめよう)救世観世音さまの悲心を、ほのぼのと私はあなたの上に感ずるのです。私には、これからどんな生涯が聞かれるのか、み仏ならぬ身の予測することもできないのです。でも、よしどんな困難がこの生涯におとずれようと、私は正直にその苦悩と対決してゆきたいのです。そして、対決の苦悩の底よりみ仏の悲心を仰ぎ、大悲につつまれた人間性の生きがいを生きて行きたいのです。あなたと二人で――。それが煩悩具足の凡夫としてのなし得る道でありまた、人としての行であると思います。筑前さん、許して下さいますか、こんな私のわがままを――」
「ああ縛空さま。わたしのようなふつつかな者に――そんなにまで……」

いつか筑前の頬をったわる幾すじかの一課に、真ァ日いやまもくれんの花びらがひらひらと舞い散っておりました。

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● 目次
一 わが放浪の記
  1. 筑紫路を行く
    —日本国家の源流を訪れて
  2. 明日香路を行く
    —日本の察明期をしのびて—
  3. 大和路を行く
    —奈良の都を訪れて—
  4. 美地乃久を行く
  5. 豊田路を行く
  6. 鎌倉を訪れて
  7. 吉野山を行く
  8. アルプス讃歌
    —還らざる遠き日の思い出—
二 中国の石窟を訪れて
  1. 敦埋への旅
    —上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—
  2. 雲山岡・柄霊寺・麦積山・龍門・輩県の各石窟を訪れて
三 やまもくれんの花白く(恵信尼さま伝記小説)
  1. 寿永の祈り
  2. 花かおる出会い
  3. 流転のいのち
  4. やまもくれんの花白く
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  1. 動乱の世に—その出生と幼年期
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  3. 大地に生きる—越後、そして関東の二十数年
  4. いのち燃ゆ—その老年期


目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

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新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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