1.敦埋への旅—上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—

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その敦埋への旅でございますが、まことに楽しく充足した旅でございました。しかしまた、やはり上海から三千キロ、十三日間の旅程は相当の旅でございまして、今年に行けましたことをいまさらのようにしみじみとありがたく思われます。
四月二十九日朝、大阪国際空港に集まりました参加者は僅か十名、添乗員一名を加えて一行十一名の小人数。まず何よりも多人数の団体でなく、一同ホッとしたようなしだいでありました。しかし、参加の方々は、後で分かったことでありますが、キリスト教神学専門の同志社大の名誉教授の方、関西大の社会福祉専攻の婦人教授の方、四国のある農機具大会社の中堅幹部の方、ご主人を亡くされてから後、もつばら世界旅行を「行」とされ世界各地をへめぐっておられるご婦人、和紙のちぎり絵を始められてまだ初歩とか申されながら、この旅行に秋の展覧会の制作をかけておられるご婦人、などなどなかなか多士済々の方々で楽しいことでございました。

例によって、飛行機は三十分程遅れて大阪空港を飛び立ちましたが、しかし僅か一時間半で、現地
時間の十四時二十分上海空港に到着、ただちに市内の玉仏寺の参観に参りました。

 上海にて
この玉仏寺は、百年程前にピルマで玉石をもって造られたこ体の仏像があることで有名な寺でありますが、そのご仏像を拝しましたら、素材が玉というのみで、彫刻は力のない凡作のように見受けられました。むしろ本堂の屋根の棟瓦のところまで飾られである玉石の大きな竜の、踊るような彫刻の方に眼をうばわれてしまいました。
最近こうした観光地を訪れる中国の方々は非常に多く、この玉仏寺も大変な混雑でありましたが、気を引かれましたのは、今この寺には何か特別の研修があるらしく、全国各地から集まったといわれる二、一ニ百人ともみられる多数の尼僧の方が、数グループに分かれて何か一生懸命にやっておられたことでありました。
今回の旅行で、古寺遺跡は五、六ヵ所参観の予定でありますが、いずれも廃寺で遺跡として在るのみ、現に宗教活動を行っているのは、今回参観予定の寺の中ではこの玉仏寺一ヵ寺のみで、お国柄とは申せ何とも寂しい思い胸噛むことでございました。
しかし、千古の遺跡は―築かれた礎は、今にこの国に残されておりますが、いつの日か、必ずやこの残骸のような礎にまた金鼓の響き涌き上がり、この国にも仏法の光輝く日のあることを信じて止まないことであります。そしてすでにその兆しは諸々に感じとられるのですが、今この玉仏寺に集まった多数の尼僧の方もその兆しの一つでもありましょうか。それにしましでも、この大陸のどこの市の街路樹も美しいのですが、ことに上海のそれは素晴らしいと思われました。市の中心・繁華街の街路樹でさえ、日本のように電線の下に切り縮められかじかんだ街路樹とは全く異なり、堂々たる大樹でありますが、一歩中心の繁華街を外れれば、郊外に至るまで車道と家並みとを分ける片側三列、両側六列にもおよぶ大樹の並木道で、それはまるで欝蒼たる樹海をゆくごとき思いの道路と街路樹でございます。道路としてふんだんに土地をつぎこみ、壮大とも言える大地の緑化を進めていることは、羨ましき限りでありました。
そして、この大地の緑化が、いかに国家・国民の切なる願いであり必至の努力であるか、私達は蘭州から河西国廊そして砂漠へと進むにつれて、いよいよ強く感じ取れるのでした。かつてはゴビの砂漢の中の小さなオアシスに過ぎなかった村々に、大規模な濯瓶事業を起こして膨大な数の苗木を育てあげ、小さなオアシスの緑が今や年ごとに非常な早さでその緑を増大させております。蘭州の周辺の「黄土高原」といわれる一木一草もないハゲ山の山並みが、毎年飛行機で草の種を撒き続け、僅かながら黄土砂の山並みが今や縁化されてきているようであります。誠に驚嘆される努力でございます。

 古都長安にて
さて、大陸二日目の四月三十日は、上海を朝出発予定の飛行機が大幅に遅れて十一時ようやく上海発、十三時半西安に到着いたしました。
このかつての中国の古都|!唐末まで実に十三王朝もの首都であったと言われますこの長安の都には、私達は三泊し、実質二日半とわりとゆっくりとした日程にて、随分自由に思いどうりの諸処を参観させていただきました。これも、一夜づけながら多少出発前の予備勉強に励みました成果か?るいは心優しく美しき現地の案内通訳の張さんの心配りか、いずれにせよ良き結果に満足の限りでございました。二日半にて参観できました個所は、

大雁塔・小雁塔・青竜寺跡(恵果・空海の遺跡)・青真寺(回教寺院〉
乾陵(唐三代高宗と、その皇后の財天武后の陵墓〉・永泰公主の墓・乾陵博物館
西安城壁と西口楼閣・陳西省博物館ハ碑林を含む〉
輿慶公園(玄宗と揚貴妃の生活宮殿の跡・阿部仲麻呂の記念碑〉
半波遺跡博物館(新石器時代の遺跡)・華精池・兵馬傭博物館

すでに、兵馬傭博物館・快西省博物館(碑林〉は二回目でありますが、いよいよ感銘深く、前回よりやや落ち着いて巡らせていただきました。この前、この陳西省博物館碑林の売店で懐素の千字文の拓本を見まして感激、しかしあまりに高価なので残念ながら取り止めましたこと心にかかり、もしやと思い覗きましたら、今度は沢山ございました。しかし、何かピンとこないもので、価格も前の時の半分以下でありましたが、何とも感激の少ないもので、つい求めずに帰りました。もしかしたら前回見ましたものは、本拓の最後の一部だったのでは?などと思い、「釣り落した魚は大きい」とかの諺を思い出し苦笑させられました。
碑林も、今回はほとんどが上に紙を張って拓刷しでありました。保護のため止むを得ない事ではありましょうし、また、見やすいとも言えましょう、が、何とも味気ない感じは拭われないようであります。
西安のシンボル大雁塔は、唐の玄非三蔵が苦難の末にインドより請来せる膨大な量の経典と、その翻訳経典を保管すべく高宗に願い建ててもらった、高さ六十四メートルの実に堂々たる塔で、後世二度にわたって中国を襲った大地震にもびくともせず現代に伝えられたものであります。それに対して小雁塔は、かの悪名高い傾国の妖婦、則天武后の発願によるもので、一回目の大地震には塔は真二つに裂けたのですが、二回目の大地震には不思議にも裂けた部分がまた一つにひつついたと言われるものであります。しかし皮肉なことに、どう見ても小雁塔の方が、高僧玄弊三蔵の発願になる大雁塔より美しく心打つものがありました。まことに造型美とは不可解な力を持つものとしみじみと感じられたことであります。
永泰公主の陵墓は、乾陵の陪塚として乾陵々域の中にありますが、ずいぶん深い地底の中、納棺室まで入って参観できました。御案内のように、永泰公主は則天武后の孫娘でありましたが、武后の怒りに触れてわずか十七歳で武后によって殺されたという哀れをとどめた生涯の主なのでありますが、武后の次の世、中宗の代になってここに手厚く葬られたのでした。いかにも王女のお墓らしく、壁画も官女の姿が多く唐代特有の下ぶくれのやさしい顔の美女が画かれハ大部分原図の壁は切り取って別に保管され、今見られるのは模写がほとんどで、ほんの一部分のみ原画のまま〉また、多数のかわいらしい唐三彩による官女・護衛兵・楽人などの彫像が、いかにも若い女性の墓らしくそのままに置かれてあり、秦始皇帝の兵馬傭とはまた全く違った深い感動を覚えずにはおれないものでありました。

長安の夜の議論西安の一夜、日本にもすでに紹介されたそうでありますが、唐時代の楽舞の復活したのがあるというので見にまいりました。どうも音舞には極端に不明な私など、恐らく唐時代の舞楽をそのまま復活させて、東大寺落慶法要の時の舞楽のようなものを観光客用に見せるものだろうと簡単に考え、だいぶきつい大いなる観光に疲れた頭を癒すのにちょうど良いな、などと思いながら見にまいりました。ところが案に相違して、それは全く素晴らしいものでありました。唐時代の楽器を復活してそれによる唐代舞楽を基本にしつつ、それは完全に現代にマッチするようアレンジされ、しかも非常な迫力を持つものでありました。完全に圧倒され、魅了しつくされて宿舎に帰った一向、興奮のさめやらぬまま、夜の更けるのも忘れて語り合ったことでありました。
「あの迫力、あの素晴らしい演出、そして俳優一人一人がよく全体を把握しての出演:::全く素晴らしいが、現在も土屋に住み(土の家、一般大衆はまだ大部分土屋の暮し〉僅かエリート労働者だけが、急激に建てられている高層鉄筋のアパートに選抜されて住むようなこの国の生活レベル、いかに物価が安いとはいえ、月収一万円というこの国の人々の生活の中に、こんな素晴らしい芸術を生みだすエネルギーの根源は一体どこにあるのだろう」
「それは唐時代の、あの世界の中華という意識高かった盛唐の舞楽を基本にもってきたからではないか」
「それは違うと思いますわよ。あの舞楽は単なる唐時代の復元ではなく、完全に現代的にアレンジされ、しかも一方では現代にチャレンジするものさえ感じられるんじゃないの」
「そう、あれだけやれるのは確かに偉大なエネルギーですよね。そして、それは恐らく、一つはこの国の体制に基くものがあるんじゃないかしら。この国では、俳優も立派な国家公務員なんでしょうから、彼らは完全に、しかも一般より高度に生活は保証されているんでしょう。何の生活への心配もなく、その道一筋に専念できる、そうしたところにこの偉大なものを生み出す根源の力があるんじゃないの」

「確かにそうですね。我々の国の前進座が経済的困難から潰れ、天下のN響の楽団員が生活苦からアルパイトせざるを得ないような状態では、どうもならんですね」
「そうですね。いっそ我々の国でも、文部省あたりから、劇団や楽団や諸芸術家で生活困窮者の方は、生活の保証をしてもらうようにしたら?」
「そりゃ、いけませんよ。そんなことをすれば、民主主義も何もなくなるんですから。そうじゃなくて、国民全体の芸術性が向上されてその結果、劇団や楽団やその他諸々の芸術家が生活苦なんでなくなり、後顧の憂いなくなるようでなければ駄目なんじゃないですか」
「確かに、そういうことは言えるんでしょう。国民みなの芸術性を高めるには、どうするかという大問題はあるとしてもね。しかしまた一方、古来赤道の南北二十度の帯のなかには文化が生れた試しがないと言われる。年中温暖で変化がなく食物に苦労しなくてすむからで、ただ一つの異例はインカ帝国の文化ですが、これは同じ帯の中でも非常な高度の土地で、それだけに生活の厳しさがあったのでしょう。ですからお話しのようにただ生活が安定するだけで、果たして芸術が向上するんでしょう」
「そう、だからこそ国民全体の芸術性の向上ということが、その芸術家たちの生活の安定という背後になければならないと思うんですよ」
芸術にも政治にも全くの素人の集まりの無責任な怪気炎は、長安の夜に楽しく続けられました。

 大黄河を渡って
五月三日大陸第五日は、早朝五時半ホテル発。七時十七分西安空港発、プロペラ機でちょうど一時聞にして蘭州に到着。西安から飛行機での一時間||全くの山並みの連続でありますがそれが一木一草もない黄土高原、一片の人跡とてない寂漠たる感じの中に、中国大陸の途方もない広大さがしみじみと偲ばれるのでした。甘粛省蘭州市llここは河西回廊の入口、近くに油田があり市には石油化学工場ができて一大発展をとげた街であります。町並みはすっかり整備されて道路は完全舗装、鉄筋高層建築が林立する近代都市で、北京や西安・上海などよりさらに近代的に整備されたと思われる街であります。こうなると無責任な観光客には、ちょっと興がそがれるものがあるようであります。
「何だか東京や大阪を見るのと変わらんじゃない?こんなのつまらんわ」
全くごもっともさま。しかし、この日の蘭州は日中の気温が二十七度、猛烈な暑さに皆びっくり、中食後三時までゆっくり昼寝して、三時から市の北「白塔山公園」に登ります。
かつて西域に旅する者は、必ずここ蘭州で大黄河を渡って河西回廊に入って行きました。私達もここで大黄河を渡って11と申しましでも、今は鉄橋をそれでも車をわざわざ降りて歩いて渡り、そこからすぐ公園の登りにとりつきました。
この公園は高さ百五十メートル程の小山で、山頂に明代・十五世紀中頃造られた白い塔があり、山襲ぞいに楼閣や亭樹が、これは明代のものではなく全て開放後の復元でありますが、多く建てられております。かなり急な登りで、白塔までは半数の五名しかまいれませんでしたが、山頂より大黄河僻敵の景観はまことに素晴らしいものでありました。白塔山は山も小さく、早くから濯瓶して完全に緑化されておりますが、蘭州市の南、白木蘭山は山も高く大きな山並みで、もち論最近まで一草も生えない黄土高山でしたが、現在は山頂まで黄河の水を上げ全山緑化して自然公園にするんだと、大変な努力を傾けている現実を見て、ただただ驚嘆と敬服の至りでありました。開発とかの名のもとに、大胆不敵に山を削り木を倒すのに平気などこかの国と比べ、千古のゴピ礁の中の厳しさを身にしみて知るここの人たちの、緑への深く限りなき愛着を感ぜずにはおれませんでした。

有名な病霊寺の石窟が、黄河の水が少なくて行くことができなかったのが、今回の旅の唯一の残念事でありました。〈可能なのはだいたい六月末から九月いっぱい位とか現地の人から聞きました〉大陸第六日目の翌四日は、午前九時十八分蘭州駅発、大陸に来て初めて汽率に乗せてもらって酒泉へと目指しました。日本では見られなくなった懐かしい蒸気機関車のしかも三連結、びっくりしながらも石炭の臭いを懐かしみ、また、車窓に広がる壮大な果樹園111日本の果樹園のようなせせこましいものでなく、一反の畑の中に一本の果樹といった間隔で、それが途方もなく広がって文字通り桃源郷といった感じの果樹園に見とれておりますうちに、列車はどんどん高度を登りはじめました。
見れば、祁連山脈の高峰の山々は白く雪をいただき、それがどんどんと曇って暗い感じ。
「おや、山は雪ですかね」
「ああ、あれじゃ相当荒れていますね」そんな会話を交わしているうちに、列車は猛烈な吹雪の中に突入、前日蘭州の日中二十七度の暑さにフウフウ言った一問、こんどはこの吹雪の寒さにびっくり。あるかないか程度の暖房では、とても身のふるえは止めようもありませんでした。聞けば、この蘭新鉄路は郡連山脈の支脈を越えるので、最も高い所にある烏鞘本駅は海抜二千メートルの高処にあり、那連山脈の最高峰海抜五千メートルの山も近くに在るとか、震える寒さにもなる程とうなずかれたことでありました。
夕食||車外の厳冬の立たずまいを眺めながら、車内食としてはびっくりするような数々の料理と美味しいブドl酒に恵まれて、すっかり元気を取り戻した一同またまた怪気炎を上げはじめるのでした。
「中国に来て随分鶏料理の数々をいただいたけど、中国の鶏ってとても美味しいと思わないこと」
「そうですね、うまいですね。日本の鶏肉は、肉が厚く脂っこいだけでちっとも風味がありませんね。香りがないですよ」
「ね、ね、この香り、わたしたち子供の頃食べた鶏肉の呑りじゃないかしら、思い出したわ、懐かしい香りね。なぜ日本の鶏肉はこの頃こんな風味がなくなったのかしら」
「それは当り前なんですよ。日本の養鶏は今、狭くて身動きもならんような金網の龍の中にいれて、餌だけムチャクチャにやって早く肉付けして市場に出すでしょう。そんなことですから、肉と油だけが分厚く付いて香りや風味が全くないんですよ。中国の鶏は、まだ昔日本の農家の庭先に飼われて自由に遊び歩きつつ餌をついばんでいたそれと同じやり方の養鶏なんですよ。だからこの香りこの風味がでるんです」
「なる程、面白いですね。人間も同じですかね、コンピューターにとり囲まれて高度の文化生活なんてのに浮き身をやっしていると、結局は鶏と同じに味もそっけもない人間ばかりできるんじゃないですか」

 ゴビ砂漠の彼方
大陸第七日目の五月五日、朝六時十八分酒泉着。早朝の酒泉は雪こそなかったのですが、ワイ・シャツにカーディガン程度の一同思わず震えあがった寒きでありました。敦埠のホテルに直行されるはずの私達の荷物を特に頼んで、朝食のレストランに運び入れてもらい、セーターにカーディガンにレインコートと、持って来ただけの物を着込んで一同やっとホッとしたことでありました。
朝食後、早速パスで中国でただ一っと言われる夜光杯工場を見学。五十人位の従業員の小さな工場でありましたが、ここで、昨夜越えて来た郁連山脈の山奥から運ばれる玉石を砕いて丸棒にし、それを裁断しえぐって杯にしてゆくのですが、仕上の削りは皆女性の熟練工のようで、熱心なその目差しがまことに印象的でありました。ここの売店で夜光杯を求め、応接室で郡峰先生と言われる書家の方から王翰の涼州詩を書いていただいたのも懐かしい思い出となりました。
この工場に別れを告げ酒泉の街を離れますと、そこはもう一面がゴピ礁の砂漠。見渡す限り一木もない強烈な外景の中をひた走ること約一時間、ゴピ疎砂漠の真只中にポツンと小さな緑と城郭と望楼とが見えてまいります。明代の万里の長城の最西端・嘉略関であります。(漢時代の長城はさらに西へ遠く、玉門関・陽関まで延びておりました〉
やがて、嘉略闘に到りその望楼に立って見渡しますと、周囲は全く一物もない註漠たるゴビの砂漠。荷遥か彼方には祁連山脈の高峰が雪をいただいて白く光り、北方に眼を移せば、果てしなきゴピの大砂漠の中すでに崩れ果てた万里の長城の残骸が遥か地平線の彼方に続き、天山北路ウルムチに向って走る蘭新鉄路がこの長城をぶち切って西北に延びておりました。西方は遮るものとてないゴピの砂漠、すでにここはタクラマカン砂漠の東の入口とも言えるところでありました。

明代、この嘉略関の僅か八千坪にも満たない狭い,域内に、常時四百の将兵が詰め国防最前線の守りを固めていたと言われます。
ゴピ砂漠の厳しい自然の中で、この砦と楼閣は実に五世紀の風雪に耐えて今日に残されてまいりました。そして、釘一本使われていない木造の楼閣の立たずまいは、実に「美事!」と息を呑むほどに美しいのであります。そして、この荏漠たる砂漠の中に残された砦の立たずまいが美しければ美しい程、ここに住んだ将兵の哀歓が、今にそのまま胸打つ思いでありました。耳を澄ませば、急を告げる斥候兵の、城壁の馬道を駆け登るけたたましい馬蹄の響きが聞こえるようーであります。
嘉略闘を充分堪能した一行は、再び車内にもどり砂漠の中を一路敦埠に向けて猛スピードで走り行きます。強烈な砂漠の光りll|車中は冷房されて暑くはないのですが目もくらむばかりの光廷に、いっか人肌は赤く日焼けてまいりました。突然一人が、
「ああ、あそこに大きな部落と湖があるみたい、どこでしょう?」
「え、どれ。そうね、もう敦埠かしら」
「ハハハ……、皆さんやられましたね。あれは贋気楼ですよ」
通訳案内の方の話に一同ウlンo思えばこの贋気楼のため古来どのくらい多くの旅人たちが、道を誤り白骨を砂漠に晒らしたことでありましょう。今は完全舗装の安敦公路を何の不安もなく猛スピードで走りながら、往時を思うことしきりでございました。途中、砂漠の中にまさに消え去らんとして土塁のみ僅かに残す古城・橋湾城跡や、漢代の蜂火台の残骸跡にて写真小休止を致しましたが、後はひたすらに砂漠の中をひた走り、ようやく敦埠のホテルに入りましたのは、日はまだ天空に高くありましたが、すでに十九時をちょっと回っておりました。朝、酒泉を小型パスで出ましてから敦埋まで実に四百十キロ、まことに実り多きゴピ砂漠の一日の旅でありました。
上海からは約三千キロ、タクラマカン砂漠の東の入口――敦煙。ここから道はタクラマカン砂漠を中に挟んで二つに分かれます。敦埋から西北九十キロの玉門関を通れば、シルクロードのいわゆる天山南路、天山山脈の南麓コルラ・クチャを経てカシュガルに至り、敦憧から西南七十五キロの陽闘を過ぎれば、いわゆる西域南道、グンルン山脈北麓のロlラン・ホウタンを経てカシュガルに合流致します。
かつての旅人たちはここ敦埋で、これからさらに厳しい大砂漠の魔境を生死をかけて越えるべく、心気しまる思いでありましたでしょう。敦埋莫高窟の大仏の前に静かにひざま事すいて、これからの大行程の安全を祈ったであろう旅人の姿が眼に浮かんでまいります。ホテルの一室、夜九時過にようやく日の暮れる砂漠の落日を望みつつ、大好きな王維の送別の詩がしみじみと心を揺さぶるのでした。

滑域の朝雨 軽塵を潤す
客舎青々 柳色新なり
君に勧む 更に尽くせよ一杯の酒
西の方陽闘を出ずれば 故人無からん

 莫高窟の菩薩たち
大陸第八日目の五月六日は、朝より一日中敦憧莫高窟の参観についやしました。それでも四百余の洞窟の中(もっとも、極く小さな窓のようなものもありますが〉ようやく二十の窟を参観するのがやっとでありました。しかし、ポイントは初期から西夏まで大体参観できたように思われます。
有名な、そして莫高窟最大でここのシンボルでもあります、則天武后発願の北大仏は、盛唐期の作としてはちょっとも有難くも面白くもない駄作でありました。いたずらに武后の権威の主張だけが、表面にあらわれているような凡作であります。
しかしもう一つの南大仏は、森厳にしてしかも慈愛あふるる感動の名作と拝しました。日本の大仏の、さして名作でもない鎌倉の大仏、駄作の代表のような奈良東大寺の大仏〈江戸中期再鋳)と、そんな大仏Lか知らない日本の私達には、この均整のとれた美しさと荘厳さ、そして、あふれる慈愛と山由市高さはまこと羨望の極みでありました。かつて奈良の大仏も、聖武帝創建の頃はかくもありなんなどと思いつつ――。
盛唐期作の有名な――百二十八窟の菩薩像にも相対することができました。まことに息をのむ程の美しさ、そのほほえみ語らんばかりの写実の躍動美――完全に圧倒される思いでございました。
しかし、同じ盛唐期の作で、この三百二十八窟と相い対される四十五窟が、昨年は公開されていたそうなのですが今年は非公開になっており、残念至極でありました。その時は地団駄踏むくらいのクヤシきであったのですが、しかし宿に帰り静かに思い巡らしました時、何かホッとするものさえ感じられるのでした。四十五窟の菩陵たちは、写真で拝するかぎり、この三百二十八窟の菩薩にも増して、福よかな美しさにつつまれております。こぼれるばかりのお色気に包まれた美女であります。かつてある日本人が、この三百二十八窟の菩薩たちを、越王勾践が呉に破れた時人身御供として呉王夫差のもとに送った楚々たる美女西施女に、四十五窟の菩薩を、グラマー美女揚貴妃にたとえたことがありました。春秋時代の呉王夫差は楚々たる西施女の美しさに溺れ、盛唐期の玄宗は妖艶な揚貴妃の美に溺れ、共に国を傾けた傾国の美女たちであります。四十五窟の彫像など「凡僧の限には触れざるを良しとす」との、み仏のおぼしめしであったと受け止めれば、四十五窟が見られなかったことにかえってホッとするものがありました。もし現実に三百二十八窟に続いて四十五窟の彫像に接すれば、おそらく仏法などどこかに消しとんで、あらぬ方向に走ってしまわなかったとの保証は何もございません。現に、一九二四年調査のためここを訪れた米人ウォーナー博士は、この三百二十八窟の菩薩の美に魅了され、こともあろうにここの菩薩像一体を持ち出してしまい、この像は今ハーバード大学付属美術館にあることであります。人間とは、まことに救い難き煩悩の主であります。それにしても、三百二十八窟にせよ四十五窟にせよ、この美しき彫像のいずれもが盛唐期の作であります。あるいは、この時期のあの大らかな人間至上主義を根底にもった文化の、仏法にことょせた一場の悪戯、とも言えるのでありましょうか。
問題の十七窟(蔵経洞〉は、とくと参観させていただきました。今世紀の初めにイギリスのスタイフランスのベリオについで、日本の西本願寺大谷光瑞門主が大谷探検隊として二名の僧を派遣し’ここ敦爆に至り、イギリス・フランスのものから比べればほんの一握りの少量の文書を得るのに一宗の財政を破綻させ、一万の末寺を驚惇させついに門主の地位を棒にふられたことを思い、今日何の苦もなく数日にしてここに立ち得た感慨また深きものがございました。
十七窟の中は暗く、今は一冊の文書もここにはなく、晩唐作の僧洪べん像が、いかにも落ち着いて、いかにも安堵したといったように安置されてありました。そしてこの洪誓像は晩唐作とはいえ、なかなか味のある彫像と拝しました。敦埋研究所の推定どおり、洪蓄像はこの十七窟の主として恐らく当初ここにあったのでありましょう。それがいつの世か、この像は十七窟の隣りの広い十六窟に移され、この狭い十七窟の中にはぎっしりと天井に届くまで六万点にも及ぶ経典・文書がつめこまれ、しかもそれは入口を密封され隠されたのです。一体誰が、いつ、いかなる理由でこんなことをなしたのか――。それは井上靖氏の小説『敦煙』にくわしいのですが――

「ね、ねえ、井上さんの『敦憧』おかしいわよね。だって西夏って仏教を敬った国でしょう。第一ここ十七窟外側の壁画だって、唐時代の壁画の上にそれを一回塗りつぶしてさらに西夏の壁画が措かれているんでしょう。いかにも十七窟の出入口を密封したことを隠すといった感じでしょう。それに仏教の事を大切に思う西夏の国が攻めて来るからといって、敦埠のお坊さん、あわてて経典を洞窟に密封して隠すなんてことしなくていいはずよ」
「そうですね。西夏が敦煙に攻めて来たのは一O三四年か三五年ですが、これに驚いて莫高窟の、あるいは敦埠の街の僧たちが、慌ててこの十七窟の像を十六窟に移して空洞になった十七窟に文書を隠し密封したという説と、もう一つは、十世紀末からカシュガルに起こったカラハン王朝がイスラム教を奉じて東進し、敦埠を含め西夏そのものを攻め落さんとしたのが、西夏が敦煙を領してから約二十年後の一O五四年、このカラハンの大攻撃に慌てた西夏や僧たちが十七窟に納経して出入口を密閉し、周囲の唐代の壁画も一応消してその上一面に西夏の壁画を描いて、密閉した出入口を全く分からなくしたのだという説がありますが――、どうも私もこの二番目の説に多く共感を持つのですが」
「でしよう。いつか井上さんに伺って見たいわね」
千古の歴史に思いを馳せ、人々の織りなすロマンに心ょせる時、まこと莫高窟の諸像や壁画は、生き生きと私達に迫り来るものがあるようであります。
莫高窟の入口に立派な墓塔が立ってあり、ポプラの若木が美しく一区画をなして植えられてありました。聞けば王円銭道士のお墓とか。ご案内のように、この王道士こそ、密封された十七窟の発見者であり、同時に六万点にもおよんだ古文書の大部分をイギリスのスタイン、ランスのベリオ、日本の大谷探検隊に売り渡してしまった人であります。(現在中国にあるのは約一万点とか〉なかなか堂々たるその墓塔の前に立って、中国の人達は今いかなる思いをもって仰ぎ見るのであろうか?など凡俗の下種な推量がふとよこぎったことであります。
夜は、鳴沙山の北側にある月牙泉にラクダの背に揺られてまいりました。全くの砂山の中、小さな日月形の泉は、砂漠の山ひだの中で三千年来こんこんと清らかな水を涌き出して、枯れたことがないと雷われます。午後九時、まさに暮なんとする残照を受けて輝く月牙泉は、周りの砂山とよく調和しまことに神秘的ともいえる美しさに溢れ、思わず王翰の涼州詩、

葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲れば 琵琶 馬上に傾す
酔うて砂場に臥す 君笑うこと莫かれ
古来征戦 幾人か回える

が心底から涌き上ってまいりました。そしていつか、千古の彼方から聞こえてくる琵琶の音にのせられて、一人王翰の詩を口ずさんでいたことでありました。大陸第九日の五月七日、ここから僅か九十キロの玉門闘を見学したかったのですが、折悪しく、門関付近でただ今軍事演習があるためこの方面には行けないことが分かり、変って敦埋県博物館を時間外の早朝から特別に聞けて見せていただき、九時半敦憧発、猛スピードにて砂漠の中を突っ走りお昼前に柳園の駅に到着。途中一回だけ一物もない砂漠の中に降り立って、一望千里何一つない砂漠が、地平線を三百六十度描き出している中で、まこと地球は広いんだなあ!とつくづく実感したりいたしました。

柳園駅を十三時三十分発。三十時間の列車の旅を経て蘭州へ。

大陸十日の五月八日、夕刻蘭州駅着。行きと同じホテルで遅い夕食をゆっくりといただいて、問、遠く遥かだった砂漠の旅を胸に温めつつ静かに就寝。

大陸第十一日の五月九日、朝八時ホテル発。中国でも都心から郊外の空港までの距離が二番目に遠いといわれる蘭州空港に二時聞かかって到着。蘭州空港より上海へ飛び、上海に九日十日と二泊。その間最初に見られなかった預園(現代の庭園)江口公園(魯迅先生のお墓〉上海博物館を参観。上海博物館は正面外観の貧弱さと異なり、内部は意外に大きく、また大量の収蔵ロ聞を持っていることにびっくりいたしました。しかしさすがに諸処貧欲の限りをつくして巡り歩いた疲れがドッと出まして、折角の博物館の逸品も、最早一々眼にとどめる気力を失ってしまったようでありました。

 変貌する中国
大陸第十三日の五月十一日、九時上海空港発。日本時間十一時三十分無事一同大阪空港着。最後の上海の夜、同行のご婦人の一人日く、
「ね、佐一さん(案内通訳〉わたしね、この旅で四十種もの小さな詰まらぬ買い物をしたのよ。そしてそのたびに、品物を渡されるたびに、必ず女店員の方に”ありがとう”と言ったわよ。つまり四十回”ありがとう”と言ったわよ。しかし昨日上海でたった一回”ありがとう”と言い返してくれた女店員が居ただけ、あとは皆さんニコリともしなかったわ。ね、竺さん、こんな中国の女の人お嫁さんに迎えて、あなたそれでいいの」
竺さんちょっと言葉につまってびっくり顔。
「これじゃあんまり愛婿も・エチケットも・面白味もなきすぎると思わないこと。竺さん、貴方日本の娘さんをお嬢さんにもらいなさいよ。それとも、こんな中国の娘さんの無愛想は、わたしたちが外国人だからなの?貴方がたならそんなじゃなく、もっと愛想もよくて、可愛いの」
「いや、ご指摘のとおりです。けっして貴方がたが外国人だから、日本人だから無愛想なのではないのです。私達でも、たとえばお店で同じ種類のものをあれだこれだと品定めしますと、女店員は必ず怒りますよ。いや良いことを教えていただきました。明後日の新聞に必ずお話しの趣旨をのせて注意しましょう」
「おやおや、竺さんそんなことしていいのあんまり言うと、あなた首が飛ぶ――失業するんじゃない?」
「大丈夫ですよ、当然の事ですから。私達は革命解放で多くのことを得ましたが、また一方で革命ゆえに大切なものまで不必要として捨て去ったものも随分あります。その結果が今になって現れてきています。女子従業員の無愛想や失礼のことなど、その一つの典型です。……今中国では、礼節の復活高揚が大きな社会課題なのです。私共もこれから随分心してゆかねばならんと思います」三年前、昭和五十八年に中国を訪れました時と今回とでは、まことびっくりする程一般の人達の生活水準の向上が見られました。三年前は、御案内のように、建築業は朝六時から夜八時まで二交代で、それ建てろ、それ築けとばかりの猛進撃、工場は大抵三交代で昼夜兼行、その結果整備が追い付かず、ホテルは水が出ても水洗便器がつまって使えなかったり、浴槽は立派に設備されていても、湯が出ないで入れなかったり……と、いたる所でそうしたトラブルがあり、食事も外人用は特別で、国内人とは厳重に部屋まで分けたり、やっと園内観光旅行が許可制ながら許されて観光客はどこもいっぱいでしたが、カメラを持った人は一人も居りませんでした。
しかし、今回はホテルで水が出なかったり、便器の不備などはなく、また、園内人と外人との食事やホテルを峻別するようなことはなく、ある程度ではありますが一緒であり、テレビは白黒ではありますが八十五パーセントの普及といい、カメラも多くの人が持ち歩いておりました。街では衣類・食料などの物資がびっくりするほど豊富に並べられ、人民公社はどんどん解放されて農業生産はものすごい上昇を示しつつあります。そして現在はまだ相変わらず生産と人口の比率から、極度の晩婚の奨励と産児制限を実行させ、一人の子供なら少額ながら出産から五年間育児手当の支給があるが、二人目の子供を生めば、月収の一割を罰金として十年間にわたって国に納めさせられるという厳しい制度も、生産向上から人手不足に悩む農村部から制度改正の兆しがすでに見えているとのことであります。
政治などには全くの素人で興味のない私などにも、今この国が猛烈な勢いと活力で変貌しつつあることを、肌にひしひしと感じられたことであります。そして、その恐るべき秘められた力に驚博すると共に、一方では現在の体制とは全く異質な古い体制の中の文物を、こよなく愛し大切にしてゆくことのできるこの国の国民性に、私達はこよなく良き隣人としての中国と中国国民とを心に刻み込んだ旅でございました。

ご繁忙の中、老人の勝手気偉な世迷い言、ご迷惑も顧みず長々と乱文の書きなぐりにてまことに失礼のこと、平に御寛容御笑捨下さいますようお願い申し上げます。
(昭和六十年六月二日)

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● 目次
一 わが放浪の記
  1. 筑紫路を行く
    —日本国家の源流を訪れて
  2. 明日香路を行く
    —日本の察明期をしのびて—
  3. 大和路を行く
    —奈良の都を訪れて—
  4. 美地乃久を行く
  5. 豊田路を行く
  6. 鎌倉を訪れて
  7. 吉野山を行く
  8. アルプス讃歌
    —還らざる遠き日の思い出—
二 中国の石窟を訪れて
  1. 敦埋への旅
    —上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—
  2. 雲山岡・柄霊寺・麦積山・龍門・輩県の各石窟を訪れて
三 やまもくれんの花白く(恵信尼さま伝記小説)
  1. 寿永の祈り
  2. 花かおる出会い
  3. 流転のいのち
  4. やまもくれんの花白く
四 久遠のしらべ
—親驚聖人のみ跡を慕いて—
  1. 動乱の世に—その出生と幼年期
  2. 道を求めて—比叡より吉水へ
  3. 大地に生きる—越後、そして関東の二十数年
  4. いのち燃ゆ—その老年期


目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

ご推薦のことば
龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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