吉野山を行く

 吉野神宮にて
後醍醐天皇が建武親政の夢破れ、足利尊氏の圧迫をのがれて吉野に潜幸されたのは建武三年(一三三六)十二月も末の事でありました。時に後醍醐帝四十八歳、意志強固な帝は悲運にもめげずただちに足利追討の準備を始められます。そして翌延元二年(一三三七〉から三年にかけて、南朝第一回の足利軍への大反攻を遂行されたのですが]奥州より来援の北畠顕家の大軍も延元三年五月戦い破れ、顕家戦死と共に離散霧消し、同七月には北陸にあった新田義貞も戦死、ここに南朝最初、の大反攻もあえなく潰え去ったのでした。
この悲運の中、翌延一元四年(一三三九)八月、今後醍醐帝は宝算五十二歳多難な御生涯を吉野行宮で終られます。大平記は、迫真の筆勢をもってこの帝の御臨終の描写を残しております。
「……主上苦しげなる御息を・吐かせ給いて、妻子珍宝及び王位、臨命終時に随わずとはこれ如来の金言にして、平生朕が心に有りし事なれば一も朕が心に取らず、ただ生々世々の亡念ともなるべきは、朝敵を悉く滅ぼして四海泰平ならしめんと思うばかりなり。……これを思う故に、玉骨はたとい南山の苔にうもるとも魂暁は常に北闘の天を望まんと思う。……と委細に倫言を残されて、左の御手に法華経五巻を持たせ給い、右の御手には御剣を按じて、八月十六日丑の刻遂に崩御なりにけり……」
吉野神宮は、この後醍醐天皇の御霊を静めんと、明治天皇が発意され工を興されてから、昭和七年に至りようやく完成をみた新社でありますが、その広大な神域は深く苔むして尊さが感じられました。

いたいたしみ魂もいまや静もらん
大きやしろの苔ふかくして

 吉水神社
建武三年(一三三六〉十二月末、畿内南部の反幕勢力や吉野僧兵をたよって吉野に潜幸された後醍醐天皇は、まずこの吉水院の宗信法印の率いる僧兵三百に迎えられてこの吉水院に入られたのでした。
そして、この吉水院に入られた翌春ででもございましょうか、後醍醐帝の有名な御製がございます。

花にねてよしゃ吉野の吉水の 枕のもとを石はしる音
この吉水院は、明治になってから神社になったもので、そもそも初めから寺院でありました。そして、重文の単層入母屋檎皮葺の書院は、室町・桃山とその手法入りまじったもので、この吉野では最古の建造物の一つであります。また寺自体としては正平の兵火にも焼けなかったので宝物も多くありますが、しかし古い書院といってももち論後醍醐帝の入られた当時そのままとは思われません。

天皇の悲しき歌のとどまるか
古き書院にせせらぎを聞く

 如意輪寺にて
当寺は、寺伝によれば延喜年間(九O一t九二二)日蔵上人の創立と伝えられ、本尊の如意輪観音にちなみこの寺名があります。
後醍醐天皇が吉野行宮におられたとき御信仰ことに厚く、以後吉野朝廷の勅願所となり、後醍醐帝崩後御遺体はそのまま当寺の裏山に葬られたのでした。塔尾陵であります。
また、正平二年(一三四七〉の南朝第二次の大反攻の時、南朝軍の中心であった楠木正行一族は、出陣に先だって塔尾陵に参拝後この本堂に参り、正行は堂扉に鎮で、かえらじとかねて思えばあずさ弓なき数に入る名をぞとどむると記した故事は有名で、今もこの扉は宝物殿に残されてあります。現本堂は、江戸初期の再建で、小さくっつましいものでありますが、形体はまことに美しく、歴史の重みを感じさせられるものであります。

つつましく立たすみ堂におろがめば
松風の音に胸うちふるふ

 蔵王堂にて
もと役小角が建てたといわれる山上ヵ岳の蔵王堂が、峨しい山道のうえ半年は雪にうもれるため参詣に不便であるとして、天平年中〈七二九~七四八〉に行基が山下の吉野にも堂を建て蔵王権現を祭ったのが初めといわれ、金峰山寺の本堂とされております。
正平三年(一三四八)の兵火で焼かれてから約百年ののち、一山の総力をあげて再建されたのが現在の蔵王堂で、木造建築では東大寺大仏殴につぐ大きなものであります。しかし柱など、材質も大きさもいろいろで、時の室町幕府から忌俸されていた吉野の、この再建がいかに困難をきわめたものであったかがじのばれます。
本堂前庭は、元弘三年〈一三三三〉護良親王が鎌倉幕府の大軍に攻められて、今はこれまでと最後の宴を行われた所で、この宴で義臣村上義光が宮の身代わりとなり宮を逃がさせたのは有名な話であります。今は、ここの所が石柵で広く因われて、中は一面にこぶし大の那智石がたてかけるように並べられて、当時の切迫した荒々しい気合いをそのままに感じられる思いであります。

荒々し玉石の覆う陣跡に
あらぶる武者の雄叫びを聞く

 金峰神社にて
奥千本といわれます吉野山の奥に、うっそうとした老杉にかこまれて建てられてある小さな社であります。その創建は詳らかでありませんが、この山が黄金の山と信ぜられたのは、すでに古く奈良朝の初めからであることから、金山毘古神を祭るこの社ができたのも恐らく奈良時代と思われ、延喜式にはすでに大社として上げられております。
参りました時は、見上げる社股への石段の中ほどに、一本の老いたもみじのしだれる一枝が、ちょうど紅葉し始めたところでありました。

奥山に静もりいますみ社の
古き一枝にもみじ色なす

 西行庵にて
奥千本の金峰神社を、さらに奥に五百メートルほど芝道を上り下りしたところに(その後、石だたみの道になりましたとか)こじんまりとした谷あいの平地があり、ここに西行庵があります。西行はかつてここに三年ほど幽居したと伝えられ、庵はもち論新しいものでありますが、周囲はまことに美しく、心洗われる思いのするところであります。

もみじなす庵のあとをおとなえば
しぐれくるなりみよしのの秋

しぐれなばおわすが如きわびしさに
そとたちのぞく庵の軒さき

 宮滝遺跡にて
吉野山麓の吉野川辺の宮滝の地は、縄文時代から弥生時代、さらにそれに続く時代の遺物を存する古代の複合遺跡であり、また、恐らく持統天皇(天武帝の皇后の〉時代の吉野離宮の地であろうと推定 されております。
持統天皇は、夫天武帝の山朋後実に三十一回もこの吉野に行幸されております。この女帝の驚くべき頻繁な吉野行幸は、吉野が彼女にとって最愛の夫天武帝との思い出の地であり、この地を訪れる女帝は、亡き夫を胸にしのび夫との語らいをもち、そして思い新たに、夫の目指した道をひたすらに忠実に歩み進まれたもののようであります。持統朝に実現を見た飛鳥浄御原令の頒布、官僚制の充実、各個人にまで及ぶ戸籍の充実、兵制の確立、日本初の中国風の壮麗な都藤原京の建設、などなど全て天武帝の念願を忠実に歩まれたあらわれでありました。
こうした持統天皇の頻繁な吉野行幸につれて、以後大和朝廷の貴顕の吉野遊行は実に多く、ここ宮滝の巾広な吉野川は満々たる水をたたえて、貴顕たちの船遊びに格好な場となり、数多くの詩歌が残されております。
ただ現在は、ダムのためこの吉野川の巾広い一面も、深い川底にわずかな水しか流れておらず、つての面影はしのぶによしない状態であります。

宮人の歌いあげたる宮滝の
川瀬もかれて秋の日わびし

 吉野和紙の里に、紙漉きを見て
宮滝遺跡からさらに車で三、四十分、吉野川の上流にまいりますと、山の谷あいにそって点々と小さな集落が見られ、吉野和紙の里があります。点在する中の一軒にまいりますと、小さな家の庭先の小さな作業場で、主人夫婦のみで和紙を漉いておりました。
半切くらいの紙を満足に漉けるようになるには、ほぼ十年の修得が必要とされるとのこと、都会流出の多い過疎地の中で、ここの主婦は小学高等科を出てすぐ和紙漉きに専念、すでに三十年余りになるとのことであります。そしてその手の、機械的に寸分の狂いもなく動く休みないこの動作の繰り返しは、正に「さやかに踊る」といった思いでありました。

和紙すきにただひとすじの生命かけし
いもが白き手さやかにおどる

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● 目次
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目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

ご推薦のことば
龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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