豊田路を行く

臼杵磨崖仏群にて
日本石仏史の第二期ハ十二世紀前半から後半にかけて〉の巻頭をかざる名作であります臼杵の磨崖仏
群は、ホキ・堂ケ迫・山王山・古園と四グループに分かれてあります。そして、共に木彫的丸彫的で、第二期の初期石仏彫像の特徴を持ったものでありますが、その中でもホキの阿弥陀三尊が一番早く十二世紀も前半と思われ、古園グループは一番新しく十二世紀後半の作と思われます。
そしてこの臼杵の磨崖仏群は、さして広くない範囲ながら山をめぐり谷をこえる中に、巨岩の肌それぞれに浮き出したかのように数々のみ仏が刻まれであり、それが実に美しく自然の風景の中に融合して、仏と自然と人と三位一体のような不思議な美しさに魅せられるものがあります。
岩々に彫られし仏とこしへに
静もりいませみ仏の里
本菅尾磨崖仏にて大野川流域には、数多くの磨崖仏が残されてありますが、この大野川グループの代表的作品として菅尾の磨崖仏があります。千手観音・薬師如来・阿弥陀如来・十一面観音・見舎門天の五体が、巨大な岩壁に一列に彫られてありますが、見舎門天を除く四体は臼杵と同じ第二期の初め噴の作と推定される丸彫りに近い磨崖仏で、毘舎門天のみは鎌倉期に入ってからの追刻と推定されております。
ここは、訪れる人とてないような寂とした山中、その静寂の中に、仏体をいろどるさびた紅がまことに印象深く、不思議な生気をただよわせておりました。
肌あれて紅さび深きみ仏の
力しみいるここの静けさ
熊野磨崖仏にて
国東半島のつけ根に近く胎蔵寺があります。この寺の脇の、鬼が一夜にして築いたとの伝承がある見事な乱積の石段を、一一一百数十段息切らせ登りつめたとき、突然平坦な一面が聞かれてまいります。
その一面をしきってそそり立つ巨岩の壁に、今まさに大地の中から生れましたかのように、上半身を浮彫にされた鎌倉初期の大日如来像(高さ六メートル八十八センチ)と、鎌倉後期の不動明王像(高さ八メートル〉の二傑作があります。
気をのまれる思いで見詰めておりましたら、この山のもう一つ上の一画に祭られである熊野権現社から、まことに朗々として真心こもる女性の一心不乱の読経の声が、木立をとおして実に力強く流れてまいりました。(ここの熊野権現社は、なぜか水子供養の場となっています〉
姿なき朗々たる読経の、大自然の中の響きは、まことに感深く、一切の毒気を抜かれて身動き一つならぬ一時ではありました。
山深き巨岩に生れしみ仏の
影深みゆく国東の秋
深山木の木立をとおる読経の
響き清けくみ仏の立つ
富貴大堂にて
国東半島中部の富貴大堂は、こんな山奥にとびっくりさせられるような所にある、まさしく藤原後期の美しい阿弥陀堂建築であります。
創建当初の華麗なる内部は、現在の剥脱しきったものからは想像することさえ困難なほどでありますが、その立たずまいは真に美しく、また、内部中央にただ一体安置されてあります平安後期の木彫阿弥陀如来像は、演出効果も充分意識されて暗い堂内にお顔だけが備え付けの懐中電灯の光を受けてほのかに浮出され、「やってるな」とは思いつつも、思わず合掌の胸ふくらむことでございました。
藤原の大きみ堂のくらやみに
ほのかに光る慈眼すずけし
羅漢寺にて
寺伝によりますと、延元三年(一三三八)円寵昭覚禅師が、この所の奇岩敬立の景をこよなく愛し、五百羅漢を安置しようと思われて、まず山麓に智剛寺を建てて十六羅漢を安置されたのが、そもそもこの寺の始めといわれます。
その後、正平十五年(一三六O)に至り、逆流建順禅師と協力、山麓より三百メートルも上の奇岩敬立の中に堂宇を建立して五百羅漢を安置し、羅漢寺と称したといわれます。峻険そのものの岩山の、三百メートルの登饗は、かつては困難をきわめたものでありますが、現在はすぐかたわらのリフトで簡単に登れます。しかし寺は、まさに岸壁にへばりつく、きわどいまでの厳しさあふるるものでありました。
しかし、有名な五百羅漢石像の安置される無漏窟とよばれる岩窟は、驚いたことに羅漢像が見られない程、岩壁といわず岩柱といわず天井から台座の上まで、祈願のシャモジの山でおおわれておりました。ちょっと失礼してニ、三の記入願文をみますと「早くよき方に巡り合えますように―X子」「祈商売繁盛OO社長XX」といった唖然たる祈念ぶり……
そそり立つ岩肌きびし幾世々に
行ぜし僧のいのちこそおもへ