大和踏を行く ――奈良の都を訪れて

 薬師寺本尊を拝して
薬師寺は、もと天武天皇八年(六八O)に、鴎野皇后のご病気平癒を祈念されて天武天皇が発願起工されたのが始めで、天武帝崩後は持統天皇(鶴野皇后)に引きつがれ、文武天皇二年(六九八)完成を見たといわれます。その後、奈良遷都と共に今の地に移ったのですが、後たびたびの災火を受けております。
ただご本尊薬師如来三尊像は、たびたびの火災にも損なわれることなく今に伝えられております。製作年代としては、白鳳か奈良か論議の多いところでありますが、様式史的には初唐様式が日本的に純化された白鳳彫刻の代表的成熟作といってよいのではないでしょうか。明るく麗しいその曲線の流れは、拝するものの俗塵をいつか洗い流さずにおかないようであります。

おおらけく流れる如くうるわしき
このみ仏になに祈らなん

 当麻寺にて
当麻寺は、寺伝の外にその創建年時を詳らかにするものがありませんが、恐らくこの寺は、天武朝頃には当麻氏の氏寺として建立が始められ、奈良時代には伽藍も整備充実されたものと考えられます。
治承の兵火で金堂は大破、講堂は炎上し、現在の金堂は奈良時代の形式を残した鎌倉時代寿永三年(一一八四)の再建、現在この寺の本堂とされる蔓陀羅堂(有名な俗称中将姫蓮糸畏陀羅を安置)は、平安時代の永暦二年〈一一六一)の再建で、東塔・西塔の二つの塔のみは当初からのもので、奈良朝建立の美しい塔であります。
そしてまた、金堂安置の丈六の塑像弥勤菩薩像は、この寺の初めからの本尊で、治承の兵火にも幸にも損なわれることなく今に伝えられ、その豊かな温顔に微笑をたたえ、ふっくらとしたその尊容は、正しく白鳳期塑像の代表作の一つでありましょう。(ただし全体に後世の補修があります〉

三十余年へだておとのふこの寺に
おおき仏のほほえみてあり

入り日さし流れる雲のその中に
軒かがやける当麻寺の塔

 東大寺にて
聖武天皇が、絢欄たる天平文化の底にうずまく地獄に対されつつ、憂悩のはてついに全国に国分寺・国分尼寺の創建を発願され、現世での壮麗な浄仏国土の実現を祈念されたのは天平九年〈七三七〉のことでありました。そして、全国の国分寺の総国分寺として、この東大寺と大直舎那仏建立の詔勅を出されたのが天平十三年(七四一)で、それより約十年の歳月と国力をついやして、ついに完成を見たのは、実に天平勝宝四年(七五二)であったといわれます。
しかし、天平のこの空前絶後の壮麗な大仏殿・大慶舎那仏は、治承の兵乱の紅蓮の炎の中にことごとく焼失崩壊してしまったのでした。(今の大仏殿並びに大仏は、江戸時代の再三定の凡作〉

粛粛と秋雨冷える苔むらに
ただひとり立っさお鹿かなし

この東大寺大仏肢の右手上、若草山山腹にある法華堂(一二月堂)は、天平創建の本堂〈現東大寺堂宇の中では最古のもの〉と、鎌倉時代建立の礼堂が一つになっている美しく調和のとれたお堂であります。
そして、この法華堂内には、天平時代の乾漆像九体・塑像四体が安置されてあります。それは正に天平彫刻の宝庫ともいうべく(木像二体は鎌倉期)中でも塑像の月光菩薩・日光菩薩像の清楚にして崇高な天平美は、つとに有名であります。

ちとせふるこのゆるぎなき立たずまい
月光のさやけさいや崇まさる

この東大寺に初めて戒壇が設けられましたのは、天平勝宝六年(七五四〉二月に唐僧鑑真和尚が渡来されたのち、四月に至って大仏殿前に戒壇を設け、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙女帝おそろいで盲目の鑑真和尚より受戒されたのが始めで、同時に我が国初の戒壇でありました。そしてこのあと、正式に戒壇院の建立が決定され、翌年大仏肢の谷をへだてた西に戒壇院が建立されたのでした。現在の戒壇院の建物は、享保一-八年(一七三ニ〉の建立でありますが、堂内に安置される四天王像は、まさしく天平彫刻の最高傑作の一つであります。

年を経ておとなふわれにみ仏の
まなこふかみて語ろうがごと

広目天像の前にて

 輿福寺阿修羅王像を拝して
輿福寺はもと藤原氏の氏寺であります。藤原氏の始祖鎌足が、大化改新の計画に当って、その志成就のときは、丈六の釈迦三尊像を造り奉るとの願をたてたのですが、その後大化改新の大業は成就され、鎌足また発願のとおり釈迦像を造立したのですがしかし、その尊像を奉安する堂宇を建立しないうちに鎌足は天智八年〈六六九〉死去したのでした。のち夫人の鏡女王が夫の遺志をついで山城の山階の家のかたわらに堂を建て、その釈迦像を安置したのが山階寺で、これが輿福寺の始めであるといわれます。
その後、寺は厩坂、ついで奈良と移され輿福寺と改称されたものであります。そして寺は、藤原氏の隆盛と共に栄え一大法城をなしたのですが、たびたびの災禍で今は昔をしのぶよすがもない状態であります。
ただ、近時建てられたその国宝館には、山田寺仏頭(白鳳期金銅像)十大弟子像・天竜八部衆像(共に天平期乾漆像〉などのすばらしい名作のかずかずが展示されてあり、中でも天竜八部衆の中の阿修羅王像は有名であります。

阿修羅の王なに祈り給ふらんまゆねよせ
せつなきまでのこの合掌の胸

 岡寺の如意輪観音を拝して
飛鳥の地、阿部落の東、北山の中腹にある竜蓋寺ハ俗に岡寺)の地は、もと岡本宮のあったところともいわれ、寺は天智天皇二年に宮を改めて義淵僧正が開基せるものと寺伝では伝えておりますが、史料的にははっきり分かりません。
しかし、本尊如意輪観音座像はまさしく奈良朝の塑像で、高さ四・五メートルのこの座像は、塑像としては我が国最大のものであります。しかも塑像のもつしっとりとした静けき落ち着きの美しさは、拝する者の心をひかずにはおりません。

おおらけき如意の仏のまなこ深み
世のわびしさを静もりで座す

 唐招提寺にて
この寺は、唐僧鑑真和尚の隠退所として建てられた寺であります。鑑真和尚は渡来後、我が国初の戒壇を東大寺に設け、戒律授与の権限を一手に掌握されたのでしたがその清廉厳格な和尚の性格は、当時の我が国仏教界に受け入れられず、わずか数年にしてその華やかな槍舞台を去ってここ唐招提寺に隠退されたのでした。
そして、慕いよる多くの学僧たちの指導に当られると共に、薬草の栽培に力を尽くされ、盲目の和
尚は鼻で薬草をかぎ分けて調合し多くの人に分かち与えられたのでした。そして、ひたすら聖武帝の冥福を祈りつつ、天平宝字七年(七六三)七十七歳にして、静かにその劇的な生涯をこの寺で閉じられたのでした。
そしてこの唐招提寺は、他の南都諸大寺が多く災火により当初のおもかげを残していないのに対し、文明八年弥勤堂を失火で、また、享和二年雷火で五重塔を失ったのみで、現在なお当初の伽藍をそのまま残して、この上ない調和の建築美をたたえであり、境内また鑑真和尚の気魂そのもののように澄明にすみわたっております。

朝日かげまろき柱に照り映えて
この大寺の気宇すみわたる

 秋篠寺伎芸天像を拝して
秋篠寺は、奈良朝最後の官寺で、光仁天皇の勅願により宝亀十一年(七八O)に善珠僧正により開創されたのですが、保延元年(一一三五〉災火にあっておしくも焼失、わずかに残ったかつての食堂か何かの建物を、その後金堂として使用し今に残されております。小さな建物ながら、さすが奈良朝の均整と調和のとれた落ち着いた、美しさあふれる金堂であります。
堂内、有名な伎芸天像は、頭部が奈良朝の脱乾漆造で、体軀は鎌倉期木造によるつぎたしの補修でありますが、全体が見事にまとめられてあり、ことに、天平盛時の系統をひく奈良末期の製作と思われるその御かおばせは、何ともいえぬ憂愁の美しさあふれでいるものであります。

うらぶれし秋篠の里に秋深み
きみほほえみの影のかなしき

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● 目次
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目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

ご推薦のことば
龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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