筑紫路を行く—日本国家の源流を訪れて—

北九州は、日本で初めて水稲農耕を中心とするいわゆる弥生式文化(BC三00~AD三OO〉の最も早く起こりました地方で、定説のいまだない耶馬台国はとにかくとしましでも、有名な説志倭人伝に見られます弥生中期の一支国(壱岐島〉奴国(福岡市とその周辺〉末慮国〈東松浦半島〉不弥国〈飯塚市とその周辺〉伊都圏(糸島半島〉など、すべて北九州にございます。
そして、これら群小の国々が盛衰離合を繰り広げながら、やがて三世紀末から四世紀初頭にかけての大和朝廷創立に何らかのつながりをもっと致しますと、弥生時代のこれら諸国のあと北九州は、実に日本国家の源流とも言い得るようであります。

 グシフル岳
記紀神話に見られます天孫降臨の地「高千穂の峰」は、一般には南九州の霧島山系の高千穂の峰であると言われておりますが、天孫系の最初の渡来地は、恐らく、北九州の背振山地がまさに糸島半島に消えようとするこのクシフル岳であろうとする学説があります。

天孫の渡りて愛でしクシフルの
嶺の木立葉いま紅葉そむ

高祖神社は、クシフル岳と並ぶ高祖山の西山麓にあります。一説には、天平勝宝八年(七五六)恰土域筑造の際に、城郭の守護神として彦火火出見命・玉依姫命・息長足比売命を祭るとされます。ただ、これには注目される異説がありまして、元来この高祖神社は姫社で、その創始は恰土城築造の奈良朝よりずっと古く、この地の豪族伊都氏がその祖神として、恐らく天日槍の妻を祭ったものであろうとする学説があります。

いかならん歴史秘めしか高祖宮の
この神域の重き静もり

 須玖遺跡収蔵庫
昭和五年、福岡市南方の須玖台地で、カメ棺千基も群集している共同墓地が京大により発掘調査され、弥生中期の奴国の共同墓地と考えられております。須玖収蔵庫は、その共同墓地より出土したカメ棺や、その他数多くの発掘品の収蔵庫であります。

たちならぶ茶黒くくすむカメ棺の
おもき静もり思いはてなし

 奴国金印発掘の地
志賀島の内海、博多湾に面したこの地で、天明四年(一七八四)百姓甚兵衛の鍬先にかかって偶然発見された一個の金印は、弥生時代の奴国王がAD五七年に後漢光武帝のもとに朝貢したとき、光武帝より奴国王に与えられたものと考えられております。
現在この地には、記念碑が立てられて、小公園風に整備され、訪れましたときは、鏡のような博多湾が、秋の日ざしをいっぱいに受けて光り輝いておりました。

 志賀海神社にて
志賀島の玄海なだに面した岩礁上に座す神社で、その創始年代は祥らかでありませんが、古くより海の守り神として崇敬をあつめておりました。神功皇后が新羅征伐のおり、海路の安全を祈られたとの伝承もあります。
祭神は、イザナギ命がみそぎの時に化生されたと言われるソコツワタツミの神・ナカツワタツミの神・カミワタツミの神の三神で、訪れました時は晴天にもかかわらず、玄海の荒海の白くくだける波々はゴウゴウと鳴り、社殿の下の岩礁を噛んでおりました。

遠き世の祈りをこめし古宮に
おろがみゆけば今日も海鳴る

 志登遺跡にて
弥生時代の伊都国の中心と見られる前原町志登の平地に、昭和二十八年に十基の支石墓が発掘され、伊都国王族の墳墓と推定されております。訪れました時は、志登平原は見渡す限りの稲穂が黄金の波をうち、その先に志摩富士と呼ばれる加也山がポツンと一つ美しく見られました。

 宇美神社にて
創始年代は祥らかでありませんが、社伝によれば、神功皇后が新羅征伐のときすでに身重になっておられたために、腹に石をまいて出陣され、凱旋後この地で、のちの応神天皇をお生みになられたと言われております。そして、この霊地に後の応神天皇・神功皇后・王依姫を祭ったのが当社であるという伝承をもっております。
しかし、御案内のように、応神天皇は古代史の中でもことに多くの謎と問題を持たれる方であります。境内には、びっくりさせられるくすの大木の群があり天空を覆っておりました。

すめろぎの産土を覆うくすの木の
巨木のむれに思いはろけし

 宮地獄神社奥院にて
社伝によりますと、神功皇后が新羅征伐のおり、この宮地獄山頂で戦勝を祈り、戦後ここに宗像三女神を祭ったのがこの神社の始めであると言い、現在はオキナガタラシヒメ命(神功皇后)も合間されております。
本殿裏山の奥宮は、後期古墳で〈恐らく豪族宗像氏の、ある時代の族長の墓〉三十数個の巨石を積み上げ奥行二十二メートルもある長大な石室をもち、ここから多くの土師器や中国六朝時代の冠・馬具類が出土しました。

宮地獄登りて拝す奥宮の
古墳の巨石香煙にしむ

 宗像大社
宗像大社は、記紀神話によりますと、天孫降臨のとき天照大神の神勅により、タキリヒメ命・イチキシマヒメ命・タキツヒメ命の三女神が、先に道中の各地(沖の島・大島・宗像町〉にそれぞれ降りられて、天孫ニニギ命の降臨を助けられたと言われます。この三女神降臨の地にそれぞれの女神を祭り三宮を一体として宗像大社と言われるものであります。(各鎮座地は、古代の半島との交通の要衝〉
こうした宗像大社の沖津宮のあります沖の島から、昭和二十九年から五回にわたる学術調査で、びただしい古代の遺品が発見されまして、これらの遺品は現在宗像町の辺津宮の宝物殿に納められております。
遺品は、ことに古墳時代後期(五世紀後半J六世紀)に属するものが多く、恐らく当時、国家的規模における祭把がこの沖の島で行われ、半島経営の守護や、軍船の安全が祈られたであろうと考えられております。遺品の中、精巧を極めた大きな金の指輪は、あやしいまでの光に輝いてひときわ印象的でありました。

宗像の女神にささぐ舞亙女の
青きもすそに秋風のふく

遠き世の朝廷の祈り見るがごと
金の指輪のひかりかなしも

 和布刈神社にて
和布刈岬の突端、早ともの瀬戸に臨んだ岩礁上にある小さな神社でありますが、社伝によれば神功皇后が新羅征伐の後に、海峡の安全を祈って奉-記されたものとの伝承を持ちます。祭神は、ウガヤフキアイズ命・トヨタマヒメ命・ヒコホホデミ命・安曇磯良神・ヒメオオ神で、古来より海峡の守護神として一般の崇敬をあつめ、また毎年旧暦元旦未明に行われます和布刈神事は有名であります。

ちはやふる和布刈の神のしずもるに
何ぞ潮騒の立ちさわぐらむ

早ともの瀬戸の岩礁に立ちて
関門海峡一番幅狭く急な潮流で名高いところで、寿永四年(一一八五)三月二十四日平家一門の滅亡したところであります。

早ともの瀬戸の潮風秋たけて
訴ふがごと波立ちさわぐ

 岩戸山古墳にて
継体天皇二十一年〈五二七〉打続く半島経営の退勢を挽回せんものと、六万の大軍を組織して半島に派遣しようとしたときであります。かねてより大和朝廷の重圧に不満をもっていた筑紫国造磐井は、この時とばかり九州で渡海準備に忙殺されていた朝廷軍をおそい反逆の狼煙を上げたのでした。有名な「磐井の乱」といわれるものであります。乱は翌年十一月に至り、物部アラカビを将とする朝廷軍が磐井を捕殺して終るのですが、この筑紫国造磐井が、自ら入るべき墓として生前に築造した九州一大きな前方後円墳がこの岩戸山古墳であると言われます。(後円部の方には、めずらしい石人像がパノラマ的に配されております)ただ磐井は乱のため、この墓に入ることはなかったと思われます。

枯れ枯れて磐井の虚墳秋深み
石人像の影のかなしも

 西都原古墳群にて
宮崎県西都原は、東西二・五キロ南北四キロの洪積台地で、この台地上に古墳時代全期にわたる大小さまざまな三百二十九基の古墳のむらがる大古墳群であります。昭和四十一年に「風土記の丘」第一号として国の指定を受けましてより、すっかり整備され、各古墳の発掘調査の外、古墳上の雑木や周囲の畑はとりはらわれて一面芝生になり、栗・山桃・センダンなどの万葉植物二千本が随所に美しく植えられて、それらの聞を遊歩道がゆるやかに流れております。

いかならむ命のあとか芝呑ほる
古墳のむれに秋日ふりしく

遠き世のロマンを胸にいがきつつ
まろき塚っかぬいめぐりゆく

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● 目次
一 わが放浪の記
  1. 筑紫路を行く
    —日本国家の源流を訪れて
  2. 明日香路を行く
    —日本の察明期をしのびて—
  3. 大和路を行く
    —奈良の都を訪れて—
  4. 美地乃久を行く
  5. 豊田路を行く
  6. 鎌倉を訪れて
  7. 吉野山を行く
  8. アルプス讃歌
    —還らざる遠き日の思い出—
二 中国の石窟を訪れて
  1. 敦埋への旅
    —上海l西安l蘭州l酒泉l敦埋・ある便りによせて—
  2. 雲山岡・柄霊寺・麦積山・龍門・輩県の各石窟を訪れて
三 やまもくれんの花白く(恵信尼さま伝記小説)
  1. 寿永の祈り
  2. 花かおる出会い
  3. 流転のいのち
  4. やまもくれんの花白く
四 久遠のしらべ
—親驚聖人のみ跡を慕いて—
  1. 動乱の世に—その出生と幼年期
  2. 道を求めて—比叡より吉水へ
  3. 大地に生きる—越後、そして関東の二十数年
  4. いのち燃ゆ—その老年期


目崎徳衛
聖心女子大学名誉教授・文学博士

ご推薦のことば
龍山哲成
新潟教区教務所長・本願寺派与板別院輪番

あとがき
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